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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇開明学校から

 1872年(明治5年)に学制発布になると、申義堂を「開明学校」と改めて、新しい明治の近代教育にすんなりと移行していったのです。当時、宇和の村々は、これにならいました。だから、宇和には小学校が明治5、6年という割合早い時期にかなりでき、1876年ごろまでにはほとんどの村々にできていました。これからは教育だ、子弟の教育に力を入れなければいけないということで、村々は競って学校を建てたわけです。
 1879年には、東宇和郡小学教習所が卯之町に開設され、小学教師の養成が始まっています。ところが、日本全体ではどうだったかというと、けっこう学制発布に反対した村々が多かったのです。学校どころではないということです。そういうことで、当時としては画期的なことだったということです。
 その後、児童数が増えて、申義堂舎が狭いということで、校舎を新築しようということが決まり、清水静十郎、末光三郎らが中心となって建設をすすめ、1883年(明治16年)に光教(こうきょう)寺下に開明学校大校舎が落成したのです。擬洋風建築で、白壁にアーチ型の窓、ドイツ製のガラスを入れたハイカラな校舎に、当時の人々は目をみはりました。近郷近在からの見学者が毎日のようにあったということです。ああいうものを造り得たというのは、その建設委員になった清水静十郎たちが、敬作あるいは珠山などから学んだ人たちですが、もう既に長崎とか山城(やましろ)の国(京都)とか、いろいろな先進地を見て目が肥えており、銀行を造ったりいろいろなことをしていたからなのです。
 当時、どこもお寺の一部を借りたり、お宮の一部を借りたり、庄屋さんの離れを借りたりして、学校を始めているのです。そういう時に、申義堂、今度は続いて、あの2階建ての大校舎を建てたので、びっくりして、みんな見学に来たわけです。これは誇りにしたいと思うのです。立派なものを造らなければいけないということを、リーダーたちは言っております。
 その後、就学率の高まりとともに児童数が増加したため、1915年(大正4年)に坪ヶ谷(つぼがや)校舎が建設されました。ちょうど開明学校の上手の所に造ったのです。坪ヶ谷は宇和教学発祥の地だと、私は思うのです。そこに校舎を造るのですが、その時建てられたのが講堂と特別教棟です。
 この時の町長は、清水伴三郎ですが、「材木、材料はいいのを選べ。宇和桧(ひのき)、山田桧の真っ直ぐのいいものを選んで使え。釘は、普通の釘を使ってはいけない。錆が出るから、真鍮(しんちゅう)で巻いたものを使え。土台は御影石(みかげいし)を使え。教育は国家の大事業だ。だから予算を削ってはいけない。思い切ったものを造らなければいけない。」ということを指示しているのです。そこらの心意気が今、校舎を見ても分かります。
 それでもまた狭くなって、町村合併もあり、今の宇和町小学校の校地の上鬼窪(かみおにくぼ)に新校舎を造ることになったのです。この時、町長ではありませんでしたけれども、「伴三郎さんにしか、これはできない。」ということで、伴三郎らがみんなを説得したりしてできたのが、1万1,000坪の四国一の大校庭です。そして、1928年(昭和3年)に第一校舎ができました。この第一校舎は、1988年(昭和63年)に旧講堂、特別教室とともに「開明の森」に移築保存され、「米博物館」となっていますので、今もその建物を見ることができます。あれは残して正解でした。二度とああいうものは建ちません。
 1989年(平成元年)には、平成の宇和町小学校ができました。ゆったりとした校地の中で、中庭も広くとって、大きな体育館を造って、立派なプールを造って、なお子供たちの遊ぶ運動場も大きくとっています。100年先を見越した当時のリーダーたちの、「予算を惜しむな、将来地域を担う人材を育てる学校を立派にしなければいけない。」という申義堂、開明学校、坪ヶ谷校舎を造った精神が受け継がれています。