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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇中町の移り変わり

 ただいま、御紹介に預かりました、私は中町で遍路宿を営んでおります田中です。
 古くからの伝承や史書、文献などをひもときまして、私ながらのお話をしたいと思っています。
 この町は、その昔、西園寺公の統治下にあり、松葉城の城下町として栄えていたようです。その後、戦略上の理由から、お城が黒瀬山に移ることになりました。黒瀬山はJR卯之町駅の西に見える350mほどの山です。この時、松葉町も、強制的に大念寺(だいねんじ)山麓の現在の卯之町に移住することになったわけです。
 やがて、時は流れ、世は移り、この町も宇和島藩伊達10万石の支配下におかれるようになりました。南予唯一の穀倉地帯、宿場町として栄えていたことでしょう。かくして、平穏な日々が過ぎていたのですが、慶安のころ、しばしば火難にあい、そこで町方衆が集まって、「松葉というのは、そもそも名前が悪いのだ。もっと火に強い町の名前にしてはどうか。」ということになったそうです。最初に、「水鳥の鵜(う)をとって、鵜之町としたらどうだろう。」と、あるものが言うと、「待てよ、鵜はまた水を招いて、水難の恐れがあってもいけない。」などの異論が出、最後に、「今年は干支(えと)の卯(う)年だから卯之町としよう。」ということになったそうです。
 今でも町内3か所に、傍示石(ぼうじせき)が残っています。その範囲内が卯之町で宇和町の中心部です。その卯之町の中心が中町です。中町と書いて、地元のものは、これを「なかんちょう」と呼んでおります。
 町の背後は緑濃き山に覆われ、澄み切った空気、清らかな水、見るからに自然に恵まれた静かな町です。この中町は、幕末から明治時代が最盛期ではなかったかと思います。今に残る家並みを見ますと、白壁、卯建(うだつ)、半蔀(はじとみ)、出格子(でごうし)など、伝統的な建造物が建ち並び、宇和島藩の在郷町として栄えた面影が、いまだにしのばれます。
 明治初年のころの中町通りの絵図を見ますと、特に目立つのが酒の醸造元で、5軒もあり、よそに比べると、比較的多いのが分かります。その他、醤油(しょうゆ)屋、酢屋などもあります。いかにこうした醸造業の環境に適していたか、伺い知ることができます。酒屋は、いずれも文化、文政以前の建物です。次に多いのが、旅館、料理や飲食店で、中町と中下通りに、なんと十指に余る盛況ぶりで、芸妓さんも80人ばかりおられたそうです。そのように古老から聞かされました。町内旦那衆の社交場だったのでしょう。その他、荒物雑貨、魚屋、米屋など、あらゆる商店が軒を連ねているのがみられます。中町へ来られれば、全ての生活物資が求められたことと思います。
 このように、盛況を極めた中町商店街も、やがて衰退の一途をたどらざるを得なくなったのです。これは明治の中期、今の商店街に県道が開通したために、町内のお客が、新しい商店街へと向かうようになり、人の流れが変わったためです。あのようにして栄えていた中町の商店街も、お客が来なくなっては、どうすることもできません。新しい商店街へ転出された方も、数軒あったようです。
 大正の末期ころまでに、多くの方々が廃業のやむなきに至ったものと思います。残ったのは酒屋に、醤油屋、数軒の旅館、料理屋、それに火薬屋です。この町に残っていた方は、豊かな資力の持主ではなかったかと思います。時の流れと申しましょうか、道路1本のために、町の様相がかくも変わってしまう、こうした事例は、全国至る所に数限りなくあったことと思います。
 終戦時、6軒あった旅館も、その後、交通事情の変化に伴い、1軒また1軒と廃業し、今では松屋(まつや)と、私宅の2軒だけとなってしまいました。これも経営者の老齢化と後継者がいないことが原因かと思います。