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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇青年学校-開明学校舎

 1939年(昭和14年)から開明学校は青年学校となるのです。それは義務化されて、本科3年、研究科2年となります。ここで私たちは夜勉強をするわけです。昼は仕事、夜は勉強です。天井には無数のヤモリがおり、そのヤモリを見ながら、いつ首に落ちて来るか、いつ手の上に落ちて来るかと、おびえながら勉強をしました。もう一つは、ムカデの大きいのがいることです。この二つが、ここの名物でした。
 本科を終えますと、研究科に進みます。研究科は、別に義務化ではないので、少数の好きな者が入って来ています。私も、研究科に進み、生徒数も少なくなり、教科を教えるのではありませんが、教官助手を務めていました。当時の大塚健吉校長に、「青年師範にいって、青年指導に当たるように。」と言われたのですけれども、元々そういうつもりはありませんので、私はお受けしなかったのです。
 以前、宇和島の講演で司馬遼太郎は、開明学校のことを、「見るごとに心が洗われていくようだ。」と言われ、宇和島での講演にもかかわらず、その半分以上は卯之町のことを話されたそうです。
 青年学校だけではなくて、青年団活動などにおいても研修教育が非常に盛んでした。それともう一つ盛んだったのは、演劇活動でした。青年団員として、ユーモラスな劇を、栄座(さかえざ)(現在は駐車場)で、毎年のようにやりました。これは青年団活動を活発にする、一番いいものでした。
 私は、1944年(昭和19年)1月博多航空隊に入隊し、1946年6月復員しましたが、その間にセレベス島のオランダ兵舎でバレーボールをしたことが、社会体育への道に入るきっかけとなりました。復員してバレーボールをやり始め、その普及のお手伝いをさせてもらいました。やがて、バレーボールは青年学校の女子をはじめ、だんだんと普及し、郡の選抜チームとなり、県大会に出て女子は準優勝をしたりもしました。その後、一時そういうお手伝いを休んでいましたが、1966年(昭和41年)にPTAサークルでバレーボールをやろうと申し入れ、今の宇和バレーボールクラブが誕生したのです。私は今も、ボールこそソフトになり、4人制ではありますけれども、昔の仲間たちと楽しく、バレーボールをやっております。
 今年(1996年)4月25日、ドイツのシーボルト協会一行が来られました。また、7月19、20日と、シーボルト生誕200年を記念しての式典には、シーボルト家の玄孫コンスタンチンさんと、アルグレヒトさんという兄弟が来られて、宇和町の町木である桧、町花であるレンゲをおみやげに差し上げたところ、非常に喜んでいただきました。また、開明学校にはドイツ製のピアノがあり、それを弾かれたのですが、ちょっと音が狂っているので、すぐやめられましたけれども、「本当に宇和は文化の宝庫です。」と、おっしゃられました。外国の人が見て、こんなに感じられるということは、素晴らしいものだと、改めて文化財としての重要性が分かりました。
 8月6日、7日には、ヴェルツブルグ大学(シーボルトと関係の深い大学で、レントゲン博士の出身校)教授のエーベルト・ヨリンデ女史(シーボルト博物館館長)がみえられました。この方は日本語が非常に上手で、おイネさんの色紙をお願いしたところ、「宇和町の田んぼの中にお稲あり」と、おイネと稲をまぜて作られた句を書いていただきました。
 司馬遼太郎は、「宇和の学校群が博物館的に保存され、学校思いの風儀が残るのも、蘭学者二宮敬作が住んだことと無縁ではないだろう。」と、書いてあります。私は、この地に生まれ育ち、先人たちの残された遺徳がわかってきましたので、伝承と恩恵に感謝して、もっと誇りに思い、何かこの町の役に立ちたいと思っております。そしてまた、余分なことではありますが、ヨリンデ女史とドイツ総領事の要望もあり、ここの文化財をドイツにお送りして、宇和の文化財を鑑賞してもらいたい、これが私の夢です。なるか、ならないか分かりませんが、私はそういうことにこれからも夢を持ちたいと思います。