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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇日本史の中の水軍

森本
 ただ、私が研究を始めたころは、大事な『毛利家文書』とか、『萩藩閥閲(ばつえつ)録』のような大切な資料も、ほとんど市販されておらず、図書館へ行って調べなければいけないというような状況でして、現在私はそういう資料は全部持っておりますけれども、その時にはそういう苦労をしながら、水軍史をまとめたわけです。
 私も昭和45年に『伊予岩城島の歴史』を、そして、その翌年には、岩城島にあります近世文書を中心にして、『続伊予岩城島の歴史』というのを書きました。そうした経緯で、私も水軍の研究を始めたわけです。
 調べてみると、水軍というのは、日本の歴史の転換期、節目節目に大きな働きをしているということがわかりました。たとえば、承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱(935~41年)、藤原純友(すみとも)の乱ですが、これを平定したのは伊予と安芸の水軍です。源平合戦でも、最後の決着は壇(だん)の浦(山口県下関市)でつけられますが、その時も村上水軍が大活躍をして決着をつけている。鎌倉時代には、この時代は農本主義の社会でありましたから、農業以外の産業は徹底的に抑えられ、村上水軍も逼塞(ひっそく)状態にありましたが、鎌倉末期から建武(けんむ)の中興期(1333~36年)には、村上水軍が後醍醐(ごだいご)天皇を助けて中興政権に貢献している。さらに南北朝時代(1336~92年)になりますと、あの吉野の山奥で、南朝が56年間も政権を維持できたのは、村上水軍だけに限りませんが、瀬戸内海を掌握している瀬戸内水軍、これが後醍醐政権、南朝政権をバックアップしたからです。戦国時代には毛利氏と村上氏が結びついて、織豊(しょくほう)政権、つまり織田信長や豊臣秀吉の政権と対立し、一時は天下を窺(うかが)うぐらいの大活躍をしたわけです。
 けれども、やがて、残念ながら秀吉の巧妙な懐柔(かいじゅう)政策にのせられて、来島がまず脱落をし、能島と因島も天正13年(1585年)の四国征伐を境に力を失い、天正16年海賊禁止令が出たために、瀬戸内海からおっぽり出されてしまって、来島氏は豊後玖珠(ぶんごくす)の森(大分県)に行ってしまうわけであります。この間、能島と玖珠の森が交流会を開いたと聞きましたが、この宮窪町石文化伝承館の前にもその記念碑がありまして、天正10年に能島と来島が戦闘を交えたことと考えあわせ、今昔の感を深くした次第です。
 まあ、それはさておき、そういうことで、能島と因島の水軍将士も、あるいは百姓になったり漁師になったりしていますね。本家の方は三田尻(みたじり)(現山口県防府市)の毛利家の船手組として、少ない石高でずっと続いて来たと、こういうようになるわけですね。
 そのように、村上水軍というのは、日本の歴史の上においては、非常に大きなウエイトを持っているにもかかわらず、ほとんど日本の歴史の表舞台には出てこない。たとえば教科書的な日本史で、皆さん、水軍のことが出てきましたか?学校で習った日本歴史で。ほとんど出てこなかったでしょう。どうしてですか?それは水軍に関する古文書、古記録というものがないからです。あることはあるのですが、非常に少ないからです。
 では、この古文書とか古記録というのはだれが書くのかというと、それは、中央の貴族、あるいは支配権力を握った武士が書いている。そういう権力にありついた貴族や武士たちが書くけれども、村上氏は、そのアウトサイダーと言いますか、権力から外れたところで活躍をしていますから、正確な史料をほとんど残していないわけです。
 ところが、歴史学では、特に文献史学の上では、そういう確かな古文書、古記録の裏付けがないと、これは歴史にしないわけなのです。本当の歴史はあっても、いわゆる歴史の本とか、歴史の文献にはならないわけなのです。で、乏しい古文書をつづり合わせて、そういうものは100のうち2、3%しかありませんが、それをつづり合わせて歴史を書くものですから、学者たちが書いている水軍の歴史は、ずいぶんいびつで、偏ったものになっております。
 例を申しましょうか。例えば大三島の東の端に甘崎(あまざき)城というのがありましたね。あの甘崎城は、どこの三島村上氏に所属していたのでしょうか。この間、あるテレビで甘崎城は、能島村上氏が支配していたと、こういうふうな間違いを言っていました。
 どうしてこういう説が出てきたかという理由をお話しましょう。甘崎城の城主が、今岡氏であったということは、これは『河野分限(ぶんげん)録』などでわかっております。ところがその今岡氏は、どこの村上氏に所属しているかと言うと、『大願寺(だいがんじ)文書』という確かな古文書がありまして、厳島(いつくしま)(広島県)の大願寺ですね、そこに今岡伯耆守(ほうきのかみ)というのが出てくる。この伯耆守は能島村上なのです。だから、甘崎城は、野島村上氏の支配下に属していたという結論を出しておるのです。しかし、今岡氏は来島支配下にもいるのです。たとえば小島(おしま)(愛媛県今治市)という島があるでしょう。あそこの領主は村上治部丞(じぶのじょう)という人です。それから甘崎の城主は今岡民部(みんぶ)という人です。さらに、伯方(はかた)島(愛媛県越智郡)の一番北側の枝越(えだごえ)城の城主も、やはり来島系統の今岡氏なのです。だからあそこは、来島にしなきゃいけない。後に来島出雲守通康が支配し、そのあと村上河内守(かわちのかみ)吉継が支配していますが、この人は来島村上下の武将だということが分かっておりますから、文献史学の上だけで考えると、そういう間違いが出てきます。これは大三島に昔から伝わる『三島宮御鎮座本縁』にはっきり書かれていることなのです。
 それから一番重要な例は、厳島合戦(1555年)に因島村上氏は参加するけれども、来島、能島両村上氏は参加しなかったという学説があります。これは千葉県佐倉の歴史民俗博物館の教授である宇田川武久氏が主張しておられるところで、元はと言えば、九州大学の長沼賢海先生が主張されたものなのです。これはどういう理由からかというと、確かな古文書がないということなのです。確かな古文書がない、だから参加しなかったと言うのです。
 ところが記録はたくさんあるのです。一番確かなものは、当時厳島神社の宮司に、棚守房顕(たなもりふさあき)という人がいまして、この人は97歳で天正18年(1590年)に亡くなるわけですが、記録を残している。その記録の中に、能島、来島の両村上氏が来援したとあるわけであります。沖家という名前で呼ばれておりますが、それは来島村上氏のことです。これが参加したということがはっきり書かれてあります。それから毛利の家臣団が残している当時の回想記ですね、戦争に直接参加して、それを回想する武将たちが残した記録にも、皆、それがあるわけなのです。けれどもこれは二級資料であるからだめだ。毛利元就が直接そういうことを古文書の上で書いていないからだめだと言うわけなのです。これはおかしいでしょう?そう思いませんか。
 そこで私が提唱したいのは、昔から、確かな古文書にはないけれども、伝承として伝えられていること、それから地名あるいは民俗学的に裏付けが取れるような、そういう資料に基づいて、従来、通説になってきたことは、一応存在したものと考えなきゃいけないのではないか、ということです。はっきりとした時代考証で、これは誤りだということが分かれば別ですよ。あるいは、これをひっくり返すような、そういう文書が出てくれば別ですよ。でも、そうでない限りは、一応存在したものと考えた上で、それを裏付けるための資料を探す。それで見つからなければそれまでですけれども、それを否定するのではなしに、一応存在したということを前提として、その上に歴史学を構築すべきだと、私は「実証歴史作家」と自分で言っておりますが、そういう立場で歴史を考えております。そうしないと、資料の乏しい、この水軍の歴史は、わからないのではないかと思います。
 同じようなことが、ちょうど陸地部で、庶民の歴史についても言えると思いますね。庶民の歴史もほとんど古文書には書かれていません。それがわからないから、庶民の歴史の研究も立ち遅れておりますが、最近では、いろいろな方法で、たとえば解釈学の上で、庶民の歴史もだんだんと明らかになってきました。それと同じように、村上水軍の歴史も、今までの発想をもう少し転換して、確かな古文書や古記録にないからだめだというのではなくて、一応これは存在するという前提に立って、それをひっくり返す資料が出てきて初めて、それは存在しないのだという結論を出さなければいけないと、私は思います。歴史学会では、今さっき紹介しました、江戸時代に書かれたいろいろな通俗史書のようなものは、参考資料としては絶対に評価しません。松岡進さんや中島忠由さんなどが書いたものも同様です。もっとも、市町村史(誌)と名がつけば、一応敬意を表して引用されたりしますけれども、個人が書いたそういう水軍関係の書物などは、ほとんど引用されません。そのことを私は憂慮に耐えないことだと思っております。
 そういったことで、一応、私の歴史研究の立場を紹介しました。
 もう少し時間がありますので、水軍の実態について、お話させていただきます。というのも、今、世間一般の人々は、水軍のことを「海賊」と呼んでいますね。海賊というのは悪い奴、悪党というイメージがありますから、「私は瀬戸内海の海賊の子孫であります。」というようなことを言いますと、たいてい軽蔑(けいべつ)の目を向けられますね。ところが、水軍、海賊はそういうものではないのですね。ちょうど武家政権の誕生を考えてみましても、東国では、武士というものは、荘園を基盤にして、他の土地を武力で奪い取ったり、経済基盤を略奪したりしながら大きくなってきました。そして、政権を取りますと、今でいう政治家や閣僚になって権力を確立し、はっきりとしたまともな政権の担い手になっていきます。
 瀬戸内の水軍もそれと同じような立場だったのですけれども、権力を手にしなかったために、いつまでも阻害されて、アウトサイダーとして、「海賊」のイメージがずっとつきまとい、今のような世間一般の目が出来上がったわけです。確かに瀬戸内海には、略奪を事とする群小海賊がたくさんおりましたが、その海賊たちを抑えて海の治安を維持し、海上の安全を保つ、それから陸の大名が戦う時に、水軍力が必要であれば、武力を提供する勢力、それがいわゆる水軍なのです。今で言う海上警察、あるいは海上保安庁、大きく言えば、日本海軍のルーツです。だから、皆さんも、ひとつ胸を張って水軍の歴史を大いに研究し、本当の水軍の姿を全国的に紹介していただきたい。私もこれからも大いに努力したいと考えております。
 以上です。