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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇海に残る水軍史跡

 能島に拠点を置いて活躍をした村上水軍の実態については、先程二人の先生の対談から、目ざましい活躍の様子がよく分かりました。そこで私は、その大変な活躍をした村上水軍が、私たちの宮窪町にどのようなものを残しているか、それについて発表をしたいと思います。
 村上水軍の主な史跡を追ってみますと、まず海に面した部分では、なんと言いましても、第1番に、拠点でありました能島。それからその属島の鯛崎(たいざき)島。3番目が能島に最も近い鵜(う)島。4番目が見近(みちか)島で、5番目が戸代(とだい)。戸代は島ではありませんが、海に面した地域ということで取り上げます。それから6番目が友浦の九十九(つくも)島というふうに考えます。
 で、まず、能島、鯛崎島ですが、これは町内の皆さんはよく御覧になっておられますように、陸地の方から見ても、意識的に島の頂上付近が平らに削り取られており、本丸、二の丸、三の丸、あるいは出丸などの跡だろうということが、十分にうかがえます。出丸というのは、専門書などにしばしば出てきますが、だいたいにおいて、見張りに便利な建物というふうな意味合いであろうかと理解しております。それに加えて、能島、鯛崎島の周辺には、皆さん御承知のように、かれこれ500にのぼる柱の穴が残っております。このたくさんの穴は何に使われたかということが一つの問題ですが、恐らく、船用、つまり、船をつなぎ止めたり、あるいは移動を迅速にするような必要性から回り廊下、つまり回廊のようなものを作るために掘られた穴ではないかと、こういうふうに考えている方もおられます。
 次に鵜島ですが、鵜島は、能島、鯛崎島の東側にあり、最も近い距離にあります。この鵜島には、御承知のように造船所跡、造船奉行の屋敷跡、古い井戸、それから兵糧(ひょうろう)奉行の屋敷があったという伝承などがありますから、鵜島は、能島にとって大変重要な部位を占めていたのではなかろうかというふうに考えられます。また、鵜島では、現在もそうですが、水軍が活躍した当時も、野菜などは十分作られて、ある程度の自給が可能でなかったかと、そういうふうなことも考えられます。
 次に戸代ですが、戸代は宮窪瀬戸をはさんで、能島のちょうど南側に位置した集落であります。突端の戸代鼻は、燧灘(ひうちなだ)に向かって半島の形を作っており、その先端部にありますのが、古波止(ふるばと)です。この古波止では、潮の満ち干にあまりかかわりのないところに、船がつなぎ止められたようで、いわゆる船溜(ふなだ)まりに利用されたのではなかろうかと考えられます。
 突端の古波止から、現在の戸代の集落の方へ向かって順番に申し上げますと、古波止の次に松木戸という地名があります。この松木戸というのは、どういうものであったか全然わかりませんが、いわゆる木戸、番所的なものでもあって、その付近に大きな松でもあったのでしょうか。それとも松材で作られた木戸があったのかもしれません。そこらのことはわかりませんが、とにかく番所的なものがあったから、こういう地名が残っているのではないかと考えられます。
 次に、「ホンジョウ山」という山がありまして、その山の谷間(たにあい)だと思うんですが、地元の戸代の人は、一般的に「オコジョン谷」と呼んでいるところがあります。正確には分かりませんが、これはどうも、「御」という字に「古城」それに「谷」と書いた、これがなまって「オコジョン谷」と呼ばれるようになったのではないかと想像しております。
 それから次に、「船倉(ふなぐら)谷」という地名があります。これはこの名称から考えて、船を入れる倉ではなしに、とにかく船に関するいろいろな用品、部品、一切を入れていた、つまり倉庫的な役割をしていたのではなかろうかと想像いたします。
 さらに、「矢櫃(やびつ)谷」という地名があります。これは文字の上だけ考えますと、矢を入れる櫃ですが、海賊が戦(いくさ)などをする時に、弓矢は当然ですが、その他一切の戦闘用具が、この矢櫃谷に納められていたのではなかろうかという感じがいたします。
 今申し上げました戸代鼻から戸代の集落にかけて残っている地名などから想像しますと、能島を中心にして、鵜島には造船所、それから戸代鼻の突端には、潮待ちや風よけなどに最適の地として古波止。そのすぐ近くには、恐らく物見をする見張り場でもあったのではないかと思うのですが、ホンジョウ山というのがあります。
 さらに先程申しました船倉谷、矢櫃谷など、こういったものをずっと追って考えますと、宮窪の海に面した鵜島、戸代は、水軍の施設が要塞化されて造られておったのではなかろうかという情景が浮かんできます。