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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇人形浄瑠璃の楽しみ

浅香
 人形浄瑠璃の世界は、一つは義理と人情です。本日上演される「傾城阿波の鳴門」は、主家のために盗賊までしている十郎兵衛とお弓が、順礼として訪ねてきた娘のお鶴に自分が親であることを名乗れないという義理があります。しかし、娘かわいさに名乗りたいという人情もあります。その義理と人情のしがらみの中であえぐ人間を描いていくのがドラマでしょう。
 演劇とは何よりも人間を描くものですし、演劇の楽しさは人間の心の飽くなき探究にあるわけです。子供への愛ゆえに迷い、深く悲嘆にくれるお弓の姿が人の心を打つのは、親としての自然な感情を正直に吐露しているからです。そして結局、浄瑠璃とは、このような人間の自然な喜びや悲しみを描くのが、その本来のテーマなのであり、観客もそれを期待していたに違いありません。「傾城阿波の鳴門」でも、この八段目の「順礼歌の段」のお弓とお鶴母子の別れは、優れた場面として当初から人気が高く、繰り返し上演されるたびに、観客の涙を絞り続けてきたわけです。
 また、人形浄瑠璃を見て、「人間は、一人では生きていけないことを感じる。」ともいわれます。人形浄瑠璃の素晴らしさは、一言で言えば、それに尽きるわけなのです。浄瑠璃語り(太夫)や人形遣い、そして三味線、これを三業一体と言うのですが、この三業一体で表出する文楽の美は、人間というものの本質を表しているようであるといわれます。人形遣いをとりましても、3人で遣います。これは世界でも珍しいのですが、主(おも)遣い、左遣い、そして足遣いと、この3者の息が合わないと、人形に魂が入らないわけです。また、太夫も、三味線との協力が必要です。
 このように、人形浄瑠璃は他の人の協力がないと成立しない演劇であるわけです。このダイナミックな機能性が人形浄瑠璃の醍醐味(だいごみ)であると思います。