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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇山人の山への思い

 次に、山にくらす人たちの山への思いについて話します。
 登山口や村境に、「しばおりさん」というところがありました。石をきれいに積んだところです。村人は、山に入るときや他の村へ山越えするときに、柴を手折ってその石の上に置き、今日の無事を祈りました。そして帰ってきたら、「お陰様で無事でした。」とお礼を言って、その柴を元のところへ戻していました。今でいうなら登山時の記帳のようなものです。
 山には「やまのかみさま」がおいでる。滝には竜神さんがおられる。巨岩や巨木にも霊が宿っている。また、山にはそれぞれ主がおいでる。それは大蛇(だいじゃ)であったりします。そうした言い伝えは、山に対する畏敬(いけい)の気持ちの表れと思えるのです。それらの話は、子から孫へと伝えられ、そこから多くの民話が生まれました。
 焼畑農耕は、そういう山を焼いて自然から食べ物をもらうのですから、そう簡単にパパッと火をつけるわけにはいきません。どうするかと言いますと、焼く場所を決めると、火道といって、類焼を防ぐために木を切り、道を作ります。その一番高い場所に石を置いて、山の神様をお呼びしてお神酒をささげ、「これから火をつけますが、お許しくだされ。ごめんなれ。ここにいる虫は飛んで行け。這(は)う虫は這って出よ。わたしどもは気をつけますから、どうぞ山の安全をお守りください。」というような呪文を唱えて点火するのです。焼畑を行う場所は、三角形、あるいは五角形の形にします。その頂点から火を下に転がせて焼いていくのです。これを逆にしますと、火の勢いは盛んとなり、木の表面だけが焼けて灰にならないばかりか、火の粉が飛んで非常に危ないのです。このときの呪文も、全国共通であります。
 それと細心の注意を払うのが、火をつける日を決めることです。その一例を紹介します。マツの落ち葉のことを「こくば」と言いますが、そのこくばを落として風の向きを見たり、こくばの湿り具合を細かく観察して、ちょうど良い日を決めるのです。一度火をつけると、それが静まるまで徹夜で番をします。そして種をまきますが、その後雨が降れば、もう最高なのです。
 このようにして焼畑耕作を行うのですから、一家族では狭い範囲しかできません。それで、「いい」または「ゆい」という互助組織ができていました。この組織は茅(かや)の屋根替えや道の修復などにも欠かせないものでした。
 自然と一緒にくらすものですから、「おきて」もいろいろとありました。例えば、山間部のたんぱく源は、獣や川魚でしょう。イノシシを仕留めたとしますと、一番手は射止めた者、続いて発見した者、後は、集落全員に平等に分け与えるというようにしていました。所によっては、猟師は千頭射止めたらそれで終わり。その後は、五輪の石塔を彫って、射止めた獣たちを供養したといいます。また、川魚の取り方なども厳しく決めていました。こっそり自分だけが山の幸を独占することは、許されませんでした。
 それから、山を焼くにも、村の組頭や住人の同意が必要でありました。宮崎県の椎葉山村での話を御紹介しましょう。明治になって地租改正がありました。御存じのように地租改正は、全国の土地を私有地にして、その土地に税金を掛けようとする制度です。宮崎県には、共有山地がたくさんの村や集落にありました。その共有山地は、椎葉などは焼畑地でありました。今まで、村の集落ごとに組頭を中心にして、家族の人数や所有畑の面積に応じて、焼畑の面積が決められていました。だから、だれ一人飢えることがなかったのです。ところがその土地が、裕福なわずかの人たちの私有地になったら、今までのように共同で助け合うことができなくなります。それで困っていたとき、民俗学者の柳田国男が研究と調査のために、この宮崎県にやってきました。早速、知事や村長がこのことについてどうしたらよいか、意見を聞きに行きました。柳田は、焼畑地帯の実態から、明治以前の仕組みの方がよいと分かっていましたが、国の高官であった柳田は、答えることを控えたというのです。このようなことは、四国の焼畑地帯でもあったことでしょう。
 この地租改正は、山村に住む人々の生活を、根本から変えていくことになります。