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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇惣川との再会

 私は10年前に東京からUターンし、平成8年3月まで、野村町シルク博物館に勤務しておりました。ただ、博物館創立以来、その仕事に従事しておりましたので、少々真面目に仕事をしすぎたのかどうなのか分かりませんが、平成8年1月、仕事中に倒れました。意識不明で即入院ということになり、3月まで入院しておりました。
 友人の医者に相談しましたら、「君みたいな大雑把な人間には、サラリーマンは勤まらない。仕事を辞めたらすぐ元気になるよ。」というお勧めをいただきまして、3月末に辞表を出しました。ですから、本格的に絵を描き始めたのは、それからということになります。
 私は、東宇和郡野村町惣川(そうがわ)に生まれ育ちました。最近、惣川が注目されるようになってきました。そのきっかけは、大相撲で活躍しております玉春日の出身地が、惣川なのです。私の家から車で約5分くらいの場所に、玉春日の生まれた家があります。その玉春日の家からさらに2、3分山のほうに登ったところの大変広い場所に、西日本最大規模の茅葺(かやぶ)き民家で、かつて庄屋であった土居家があります。この土居家の復元も、新聞やテレビで大きく取り扱われたりしたということで、私のふるさと惣川も、名前がかなり通りやすくなったように思います。
 資料の惣川の地図を見ていただきますと、この地は、昭和30年(1955年)までは、惣川村と言われておりました。地図の右側に「ONOGAHARA(大野ヶ原)」とありますが、そのなかの源氏ヶ駄馬(げんじがだば)が標高が一番高く、1,402mあります。地図の左端、惣川への入口に惣川発電所がありますが、その辺りの標高は、だいたい200mです。従ってこの地域は、大変標高差の激しい山間地です。また、山を境にしまして、隣は、高知県檮原(ゆすはら)町になります。そういう国境、あるいは県境に位置しております。江戸時代は、檮原地方の農産物を高知城下に運んで売りたいと思いましても、大変不便だったそうです。そこで、どこで販売したかと言いましたら、山を越えて惣川の里を通り、そこから肱川(ひじかわ)を通って内子(うちこ)とか五十崎(いかざき)、大洲(おおず)に運んでいたのです。今日でも、檮原の方は、高知空港を利用するよりも、松山空港を利用する場合のほうが多いとのことです。そのくらい、今日でも檮原町とか東津野(ひがしつの)村(高知県)などから高知の中心部に行くのは、なかなか不便なのです。
 こういう意味で惣川は、今日のように自動車が盛んになる以前は、むしろ高知と愛媛をつなぐ大変重要なルート上にあったということです。ですから、奥深い山村でありながら、かつては活況を呈していた。土居家は、そういう時代の面影を忍ばせてくれる数少ない建築物ではないかなと思います。