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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇祇園祭と私

深見
 このように、祇園祭というものは、たたりと怒りの神の難をいかに免れるかという、宗教としては極めて古代的な、しかも世界的な規模を持った思想の上に成り立っているのです。そういうものですから、祇園祭と私のかかわりにおいても、さまざまな伝承が、私の子供の時からずっとつきまとっております。たとえば、私の町(ちょう)が出す黒主山(くろぬしやま)という山は、その御神体が、六歌仙の一人である大伴黒主(おおとものくろぬし)なのですが、その髪の毛に触れたものは、雷に打たれて死んだというような伝承があって、御神体にさわることなどできない、そういう恐い神様であったのです。
 つまり、私が申し上げたいのは、祇園祭というのは、あくまで神事として私たち町衆の意識の中にあるということです。したがって、私の父親は、自分の誕生日には、いつも私を連れて八坂神社に参拝いたしましたし、毎月1日には、木・火・土・金・水をお祭りする五行祭(ごぎょうさい)を必ず行いました。その五行祭の供え物の真ん中にあります土は、黄帝(こうてい)といい、常に私が命じられて、子供の時から、毎回八坂神社のお砂をいただいてきて、拝んでいました。
 また、先程黒主山という山の話をしましたが、山には鈴が二つ、松の枝に結んでありまして、山を担ぎますと、その鈴が和音をなして、チリンチリンと非常にかわいい音がするのです。これが各町内の山によって、全部違うのですが、私の母親は、1町(約110m)ぐらい向こうからチリンチリンという音が聞こえると、すぐに聞き分けまして、「あ、うちの山がお帰りや。」と言って、私たち子供や女中たちに命令して、皆を表へ並べ、お帰りになった山をお迎えさせました。つまり、祇園祭と私ということで言えば、生まれた時から今日にいたるまで、家の中には神事としての祇園祭というものが、隅々まで行き渡っていたという一面があったのです。
 祇園祭のもう一面を象徴するものに宵山(よいやま)というものがあります。この宵山になりますと、私の同級生の女の子たちは、皆お風呂に入れてもらって、まっさらの浴衣を着せてもらって、素足に下駄を履き、そして天花粉(てんかふ)などを首に塗りまして(時には口紅などを塗ってもらって)、うちわを持って、三々五々、仲の良い友だちと一緒になって、宵山に出ている山や鉾を見物して歩くのです。そして、私たち男の子は、山や鉾のそばでちまき売りの手伝いをしながら、同級生の女の子が通るのを見て、「あれが、いつもはほこり臭い、どこに顔がついているか分からん同級生の女の子かいなあ。まるで天女みたいやなあ。」と思って、いつまでもその彼女たちの後をじっと見送っていたのを覚えております。これがいわば、「今宵会う人、みな美しき」という、祭りの原点の一つであり、祭りというのは、そういう一つの美意識を子供に植え付ける非常に大事な要素ではないかと、私は思っております。
 とは言え、子供のころの私にとっては、7月のお祭りは、暑い最中に目上の人たちのしった激励を受けて、いろいろな飾りや装飾品の入った箱を運んだり、それを飾りつけたりさせられますし、なにか少し違うと、「全て御先祖の足跡を踏みしめていかねばならぬ。」といって、一挙手一投足に至るまで、仕来りに従って飾りつけなどをやらされますから、私は高校生ぐらいになるとお祭りが嫌になってきたのです。そして、大学生になると、「いい加減にしやがれ。」と言って、よその町の大学へいってしまったり、あるいはその間、「ちょっと旅行だ。」といって留守にしたりして、祭りから逃げるようになりましたが、40歳、50歳になりますと、再び舞い戻ってきまして、最後にはとうとう山鉾連合会の理事長まで務めて、一生懸命になって祭りの維持に努めているところです。
 これも結局、私の原体験として、子供の時に祭りがあったからだと思うのです。したがって、これからは子供たちに祭りが神事であるということと、祭りというものの美しさをいかに植え付けるかということが、祇園祭を今後維持していく上での根本に関わる点ではないかと、私は考えております。
 こういったことを申し上げて、一度、終わらせていただきます。