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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇まちと祭り

佐藤
 現在、西条祭りについては、各町内でだんじりやみこしや太鼓台を出しています。そこで、まちと祭りのかかわりについて、少し考えてみたいと思います。
 深見先生、京都の場合は、まちと言うと、「マチシュウ」とか「チョウシュウ」といった言葉があると思うのですが、そのあたりからお話をしていただきたいと思います。

深見
 今、お話がありました問題なのですが、祇園祭の山鉾を支えておりますのは、京都の中心部にあります各町内です。しかし、この町内と申しますのは、京都は碁盤の目のようになっておりまして、元々はその碁盤の目の一つを町と考えて為政者は出発したようなのですが、結果的には、線のほうが単位になってしまいました。つまり、約60間(1町)の間に、一つの通りに面して表が向かい合っている家々、これをもって1町内と、江戸時代からそうなってしまったようです。これを「チョウジュウ(町中)」といいます。これは、連中とか講中とかいう、あの「中」です。ですから一つの自治組織の単位であったわけです。このチョウジュウを形成している人間を「チョウシュウ(町衆)」というわけです。「マチシュウ」という言葉も使うことがありますが、これは、戦後になって聞くようになった言葉で、私が子供の時は、「チョウシュウ」と言っておりました。「マチシュウ」という言葉を導入されたのは、先般亡くなられた日本史の大家であった林屋辰三郎氏でして、彼は彼なりの一つの理念があったわけです。どういうことかといいますと、戦後、祇園祭を、神事から切り離して、民衆の祭りに取り戻そうという思想の一つの意思表示として啓蒙(けいもう)的な表現である「マチシュウ」という言葉を導入されたのです。しかし、私たちチョウジュウの人間は、今でも「チョウシュウ」といっております。
 このチョウシュウによって組織されるチョウジュウというのは、江戸時代から一種の非常に高度な自治権を、いわば押しつけられるような形で、与えられておりました。例えば、不動産の売買、住民の転入転出の許認可権、印鑑登録、印鑑証明の発行といったものは、全部チョウジュウが行っていたのです。私の家にも、今日はちょっと荷物になるので持って参りませんでしたが、天保年間の印鑑登録票や印鑑証明発行の原簿などが残っております。
 現在で言いますと、ここ西条市でしたら市役所、京都市のような政令指定都市になりますと各区役所が行っている業務のほとんどを、そのチョウジュウが行っていたのです。そして、このチョウジュウが祇園祭を支えていたのですが、明治22年(1889年)、京都市に市制がひかれることによって、チョウジュウは、それまで持っていたあらゆる法人格をことごとくはく奪されてしまいます。そこからチョウシュウの没落が始まるのです。この市制の施行というのは、良くいえば日本の近代化ですが、悪くいえば、中央集権による官僚体制の肥大化であります。ある学者の研究によりますと、江戸時代の終わりから明治時代の初めころの、ちょうど京都市民の数が40万人を超えようかというようなころ、京都市を統率していた役人の数は500人に満たなかったということですので、市民1,000人に一人ぐらいの割合しかいなかったのです。現在は、とてもそんな比ではありません。したがって、当時は税金が安かったということで、チョウシュウは非常に財産を持っておりました。ところが中央集権による重税のためでしょうか、明治22年ころから、祇園祭のいろいろな懸装品(けんそうひん)の新調がパタッと中止されてしまい、古いものをそのままボロボロになるまで使って、昭和時代に入るのです。
 戦後、京都市、京都府、国の補助金を当てにして祇園祭が復興していくのです。したがって、日本の近代化と祇園祭の盛衰というのは、相反する形になるのですが、現在は、それが良い関係に復元しております。これが、チョウジュウやチョウシュウと祇園祭の関係です。