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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇金毘羅街道の現在

 それでは、川内町を通る金毘羅街道の現在のようすを川上から桜三里(中山越)方向に、写真をまじえながら説明したいと思います。
 まず、米田屋の横の分署坂(ぶんしょざか)といわれるところに道標が一つ立っています。元の道標は、梅津寺(ばいしんじ)にあるそうで、これは新しくたてられた道標です。この手前には、鍵屋や丁字屋などが建ち並ぶ通りがありました。金毘羅街道は、この坂を登り右側に行くのです。
 旧名越(なごし)座前には、「左讃州(香川県)金毘羅道、右名越金毘羅道」という道標があります。名越座につきましては、のちほど説明したいと思います。
 そこから少し行きますと、昔の川上駅があった伝馬(てんま)屋跡があります。ここは、助郷(すけごう)と申しまして、近郷の者が次の駅まで人や物を運ぶために馬を持って集まってくる、馬継ぎ場所になった所でして、そこに店があったので伝馬屋と呼んでいたわけです。
 吹上(ふきあげ)池の横に出ますと、天保5年(1834年)の常夜灯があります。ここが桜三里の人口だといわれております。吹上池の横を通って、ゴルフ場に通じる道を進みますと、昔は近くの人が赤坂と呼んでおりましたが、現在は小鳥越(ことりごえ)とも呼んでいる所に出ます。
 さらに進むと、大鳥越(おおとりごえ)といわれる所に出ますが、道は現在ゴルフ場の下を通るトンネルになってしまい、昔の金毘羅街道の面影は、全くなくなっております。大鳥越を越えたところの三軒屋(さんげんや)には「嘉永4年(1851年)若連中」という、昔の青年団の名前がある常夜灯があります。
 さらに行きますと、道路より少し上の人家の前に金毘羅街道の道標が、片一方はちょっと折れて分からないのですが、二つありまして、やがて、永寿(えいじゅ)橋に出ます。この橋は明治時代になって川内町で最初にかかった橋らしい橋で、当時川内町で一番大きかった橋だそうです。この永寿橋を過ぎて、桧皮(ひわだ)へ入る間に、馬頭観世音があります。これは、街道を通る馬の安全を願って建てられた観音像なのです。
 桧皮は、昔は旅籠屋がたくさん建っていたようで、現在も、金毘羅街道の面影をわずかに残しているところです。
 ここから細い坂道を登って行きますと、現在松山自動車道のあたりになりますが、桧皮峠に出てきます。ここには、道の左側に川内町重信町衛生組合斎場「桜花苑」ができていまして、昔の面影は一変いたしておりますが、中山越では、ここが一番標高の高い所なのです。桧皮峠を下って、土谷(つちや)に入りますと「金毘羅大門廿五里(25里)」という道標が立っています。
 土谷から、国道11号に出ないで、中山川の支流沿いに進むと、土谷の小峠(こどう)というところの入口にあります金毘羅道の道標に出ます。ここは、かつては一の関になっていたようで、現在の道標は左手に金毘羅道が通っているのですが、この道標は実際に立っていた所から、現在の場所に移して復元してもらったので、道標の文字は「左こんぴらみち」となっています。また、その横には2体のお地蔵さんが立っております。大きいほうのお地蔵さんは、川内町で2番目に古いもので、延享2年(1745年)につくられたようでして、このころすでにお地蔵さんがたてられたということは、中山越はすでにこの時代には、かなりの人が行き来をしていたということを物語っているのではないかと思います。
 そこからしばらく下がりますと、道の端にお地蔵さんがあります。このお地蔵さんは、土谷の茶屋七兵衛ほか阿波の藍(あい)屋連中と阿波の藍商人、武市増助等11人が世話人になってたてているのです。これは、ここで阿波の藍商人が盗賊に襲われ死亡したため、その慰霊のためにたてられたといわれております。
 さらに山道を進みますと、源太桜の手前にある三つのお墓に出ます。一つの墓には豊後臼杵(ぶんごうすき)領井野村という名前が彫り込んであります。豊後臼杵領というと今の大分県ですから、当時、そう言った地域からきた人がここで亡くなったものであろうと思います。他の墓には、宇摩郡馬立(うまだて)村(現在の新宮村)の名前が彫ってあります。また、もう一つの墓には防州とありますから、山口県の人のお墓であろうと考えられます。このように、桜三里に中国・四国・九州各地の人のお墓があるということは、ただ単に近くの人が通っただけではないということを物語っているのではないかと思います。
 そこからまもなくの所に源太桜の1号があります。私たちが数年前に測った時は、胸の高さの幹周が、280cmぐらいでしたから、もう現在では300cmを越していると思います。さらに行くと、源太桜の2号が出てきます。
 さらに進むと、中山川逆調整池に出ます。ここには、「曙(あけぼの)橋」という、屋根付きの鞘(さや)橋という種類の橋がかかっていたのですが、現在はありません。その橋の所には、馬のためにたてられたお地蔵さんがありましたが、ダムができるときに、田桑(たぐわ)寄りの対岸(右岸)に移されました。