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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇名越座の思い出

 次に名越座の思い出ですが、私が物心ついた時には、すでに出来ておりました。そして松山市以外の町村では見られないほど立派な娯楽の殿堂であったのです。宮東(みやひがし)で角(かど)店と呼ばれた日用雑貨たばこを商う店の御主人で、見るからに堂々とした体格の名越啓次郎という方が、自分の家の向かい側にある360坪の土地に、建坪300坪の大きな入母屋(いりもや)造り2階建ての、入場人員1,168人という、途方もない大きな劇場をつくり、明治40年(1907年)5月8日、自らの姓をとりまして、名越座と命名したのです。この劇場は、当時松山に「新栄座」とか、「国技座」とかいう劇場がありましたが、それに勝るとも劣らない劇場でした。
 この名越座建設のために、当時の金で1,250円の資金を投入したと聞いております。正面の舞台は回り舞台となっており、見物席には4人が座れる升(ます)席がありました。この升席は、普段は追い込みでしたが、麦を刈る前の「麦うらし」という農閑期に、毎年徳島の阿波源之丞という「でこ芝居」の興業を10日間ぐらいやったのですが、そういった特別興業の時には升席として使ったのです。そのときは、農家の皆さんは、お弁当をこしらえ、ひょうたんにお酒を入れて、一家で名越座に来て、朝10時ころから夕方4時ぐらいまで、升席で「でこ芝居」を見てゆっくりとしたのです。そういう時には、升席の値段は普段より少し高くて、2、30円ぐらいだったと思います。普段は、二階の特別席を除いて、升席であっても追い込みでしたから、どこで見ても同じ金額だったのです。
 私は、その劇場の隣の家に生まれ住んでいましたので、特権がありました。というのは、劇場で興行の時には、とにかく昼も夜もなくやるので、「やぐら下」という劇場の隣近所のものは、やかましくて寝られませんでした。ですから、劇場主から、「やぐら下」はどの劇が来ても無料にしてもらっていたのです。それで私は、子供の時代には芝居と映画はただでたくさん見たものでした。