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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇民具と日本文化

 民具そのもので、日本の文化を知ることもできるのです。これは私の師匠である宮本常一がやったことでありますけれども、例えてお話します。
 養蚕地帯には、「簇(まぶし)」という道具があります。蚕をとまらせる簇の一番初めは、ハギの枝に蚕をとまらせたのですが、ハギの枝ですから限界があるので、だめになりました。今度は2本の荒縄に棒を何本か突き刺してハシゴ状にして、そこに蚕をとまらせたのですが、蚕が2匹かたまって繭(まゆ)が団子になるのです。しかし、それでできた団子状の「玉繭」をうまく利用したのが「紬(つむぎ)」なのです。ですから、「紬」の発生は、本来、あまり上等でないくず繭で織ったものですが、これが一つの特色ある絹布になりました。日本人の一つの知恵だったのです。次に考え出されたのが、たくさんの藁で全部波形につくる「波形簇」というものです。これは、ひいた藁を所々おさえて波形にしたもので、これによって、蚕が満遍なくついていい繭ができるようになり、日本の養蚕業が発達するようになったのです。
 日本の養蚕業が発達しますと、群馬県などの養蚕地帯では、天井裏まで蚕を飼うようになります。さらに、平たん部で養蚕が発達しますと、座敷で蚕を飼うことになるのですが、群馬地方の民家の二階や天井裏は暗いので、どこか明かりをとらないといけないということになり、一方の妻壁のほうを切り、そこへ障子をはめるわけです。これで出来たのが「兜(かぶと)造り」の民家なのです。建築学のほうでは、どこそこ地帯には「兜造り」の民家があるということだけしか言わないのですが、その「兜造り」の民家が出来上がるのは、養蚕の簇づくりの結果、養蚕が発達して、養蚕をする場所を獲得するために天井裏まで使うようになった結果なのです。これは飛騨の白川郷(岐阜県)も同じことです。「兜造り」の名前の由来は、妻壁の部分を一部分切ってそこに窓が開いており、横から見ると兜のように見えるからなのです。つまり、「兜造り」の民家というのも、簇という生活用具の革新から出来上がったということが言えるのです。このように、一つの道具から、日本人の文化全体を見ることもできるのです。
 もう一つ例をあげてみます。新潟県と長野県の境に秋山という所がありますが、ここのことを江戸時代の終わりに、鈴木牧之という人が、『秋山紀行』、『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』という本に書いていて、「秋山へ行くと、どこの家へ行っても、盆が四つ、五つは転がっている。」と言っているのです。この盆は、稗(ひえ)や粟(あわ)や小麦を団子にしたりして、粉食するのに使うものなのです。その中に楕円形で非常に平べったくおのでくった薄い「刳物」の盆もあるのです。それを平鉢といいます。なぜこういう平鉢がいるのかといいますと、円座をつくって宴会をするときに、必ず一献(いっこん)いただいて、一献ごとに謡(うた)を歌うなり、めでたい言葉を言いながら杯を回していくのですが、その一献に一種の料理の鉢を薄い楕円形のくり盆の上にのせて、次に欲しい人へと送るためなのです。だから、五献回ると五つの料理の見立てがあるわけで、献立という言葉は、一献ずつの料理の見立てのことなのです。そして、これが「艘(そう)」すなわち「槽(ふね)」なのです。
 平安時代の『延喜式』を見ますと、どこどこのお祭りに鮎を何百艘献上したというような記録が出てくるのです。何百艘というと、船を数える艘と書くので、我々は、海の上を走る船のように思うのですが、そうではなくて、小さい「刳物」のことですから、1艘は鮎2匹を載せたものなのです。だから何百艘と言っても、その量は知れています。『延喜式』の読み方も、そういう実際の日本の民具を知ると変わってくるのです。