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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇民具と文化の流通

 もう一つは、民具と文化の流通についてです。端的な例を挙げますと、北前(きたまえ)船が寛文12年(1672年)に西回り航路の開発によって活躍しますが、これは大阪から瀬戸内海を通り、関門海峡を経て日本海を航行してはじめは酒田(山形県)まで行くのです。しかし、その船は「弁才(べざい)船」という、喫水(きっすい)線のたいへん高い、非常に不安定な船なので、たくさん荷を積んでいかないと安定しないのです。それで、荷の軽い時には、瀬戸内海の石や伊万里の焼物を積んで行き、途中の日本海で下り荷が増えると、石や焼物を降ろして行ったのです。こうして降ろした石が、佐渡の石像文化をつくったりしたわけです。また、伊万里の焼物が、たまたま最後まで行くと、津軽地方まで伊万里焼が広がるわけです。西日本は焼物文化で、東北は木器文化でしたが、おもしろいことに、伊万里焼は西日本では大変貴重なもので日常使えないのに、東北地方では木器に比べて、非常に使いやすいしきれいだということで、日常よく使うようになったのです。そのほか、祇園祭もこの北前船によって伝わっていきました。弘前の祇園祭の山鉾は京都の山鉾がそのまま使われています。こんなことを考えると、今まで日本海側というのは、裏日本だというふうにいわれてきましたが、近世以降は文化の表日本であると私は思うのです。
 さらに例をあげます。東北地方は寒冷で木綿ができません。木綿は、伊予もそうですが、西日本ではたくさんでき、大和(奈良県)、山城(京都府)、河内・和泉(大阪府)などでは、ふんだんに木綿を着まして、その古着が木綿のできない東北へ送られます。東北では仕事に出るには麻は大変寒いので、西日本の古着の木綿が日常使われるようになり、木綿を強くするために、「刺し子(さしこ)」ができ、特に東北地方の津軽とか南部や北陸地方には「菱(ひし)刺し」ができるのです。「菱刺し」は、単に「刺し子」にして強くするだけではなくて、主婦たちが知恵を働かせて、きれいなようにとつくったもので、独特の模様や文化をつくりあげています。その木綿がさらに古くなり使えなくなると、今度は東北地方にある麻をタテ糸にして、木綿を引き裂いてヨコ糸にしてつくる「裂織り」ができたのです。これが東北の「裂織り」文化をつくりあげるのです。
 現在、東北地方では、私の友人の民具研究者が「裂織り」の機を100台そろえ、主婦たちに織り方を指導し、自由に織らせておりまして、その織物が商工会議所から青森の特産品として売られて、「裂織り」のブームがやってきています。今では、わざわざ「裂織り」をつくるというようなことにもなっているのです。
 また、漆の話をいたしますと、日本人にとって、古くから漆は最も重要なものなのです。と言いますのは、最近、東北地方から縄文時代の遺跡が発掘されておりますけれども、そこにはちゃんと漆を塗った遺物が出てくるのです。例えば、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡というのが発掘され、今までの縄文学を全部くつがえすようなものであると大変話題を呼んでいますが、そこには、轆轤で挽いたかと思うぐらいきれいに成型された「刳物」の椀があって、それには朱漆が塗られているのです。
 この知恵は、恐らく中国やインドネシアあたりに始まるわけですが、この知恵が入ってきたとしても、ウルシの樹木が入ってくるわけではありませんから、まずは自生のウルシの木を使ったはずです。ところが東北の状況を見ますと、当時わずかに自生していたウルシの木はすぐ絶えてしまうはずですから、そこでウルシの木の植栽が行われただろうという仮説が出ているのです。ウルシは一回植栽をすると、輪転していきますので、樹木そのものが定住性を持っているわけでして、そこから、縄文時代の人の定住性は漆文化が生んだのではないか、という仮説も出てきています。だから漆文化というのは、我々日本の文化として、ずっと継承されてきたものであると思うのです。
 漆器の話で、尾鷲(おわせ)(三重県)のわっぱについてお話したいと思います。漆器は繊細で、人間が動いて出るほこりも漆に影響を及ぼしますので、ここではわっぱをつくっておいて、梅雨の時期に一気に塗り上げるのです。そこの漆器のわっぱは非常によく流通しておりまして、熊野から大和へ入ったものと、もう一つは吉野川をつたって、阿波の山中に入りました。同じわっぱでも、阿波に入ったのは、中に入れて重ねた時に動かないように底に3つの足がついておりますが、大和側のものにはないのです。大和側では、あまりおかずを持って行かずに、味噌だけ持って行き、その味噌をわっぱのふたに谷川の水をくんで溶かし、そこへ焚き火で焼いた石を放り込んで、おいしいみそ汁をつくったのです。これを石汁といいます。ところが、吉野川を伝わっていったものは、おかずをたくさん食べるので、おかずを入れるわっぱが、飯を入れるわっぱの中へ、ちゃんと納まるような形になったのです。同じものでも、そのように地域の食生活に合わせて違った形で流通をしていくのです。だから使い手とつくり手が、ちゃんとコミュニケーションを持っていたわけです。つくり手が勝手につくるのではなくて、やはり使い手の意向によって、使いやすいようにつくり手がそれに応ずるというのが、日本の民具製作上の工夫であったわけで、これは極めて重要なことであろうと思います。
 もう一つ流通でいいますと、我々がいっております伝統工芸は、文化の流通のルートをつくりあげるという、非常に重要な意味を持っているのです。例えば、佐賀県の有田の南に波佐見(はさみ)という所があり、ここでは古くから磁器が生産されているのですが、人形浄瑠璃も残っているのです。というのは、焼物をする経済力が、人形浄瑠璃を絶やさずに支えてきた社会基盤なのです。だから、伝統工芸や生活用具を生産する伝統産業は、生活文化の形成だけではなくて、いろんな文化を上積みさせているということであろうと思います。
 もう一例。私が十津(とつ)川(紀伊半島を南流する熊野川の上流部の名称)沿いの村々の調査をした時に、民家に泊めてもらうと「あんたはデコをよう回すか」と聞かれたのです。というのは、この地域は里芋(さといも)地帯でして、里芋をゆでて、くし刺しにして囲炉裏(いろり)の火の回りに刺してあたためておき、それをフーフー吹いて回しながら食べるのが、ちょうどデコを回す(人形を操る)格好に見えるからなのです。だから、「あんたはデコをよう回すか」ということは、里芋でも食べるかということなのです。ということは、それほどそこヘデコ回しが入ってきたということです。では、デコ回しがどうして入って来たかというと、阿波の藍商人の商品流通ルートに乗って入ってきているわけで、阿波の人形浄瑠璃が広まっていったのは、藍商人のルートにのった結果であったのです。
 人形浄瑠璃は、十津川の山の中を横断しながら、紀伊半島を越えて、伊勢(三重県)の安乗(あのり)まで行き、安乗文楽となって、今も盛んに行われています。この安乗文楽は、上方の文楽系の少し小さい人形と、阿波系の少し大きい人形の2種類を使っているのです。なぜかと言うと、阿波から藍商人のルートに乗って入って来たものと、船で富士参りをしたときに岡崎あたりまで入ってきていた上方の人形首を手に入れてきたので、上方の人形も入って来ているのです。これも、文化流通です。ちなみに、阿波系のデコはなぜ大きいかというと、野舞台でやるものですから大きくなければ観客に見えないのです。これに対して、上方系のデコは、普通の劇場でやるわけですから、観客数が少ないので小さいのです。こういったところにも、差が出て来るわけです。そういうことで、阿波の染物の原料である藍そのものを、諸国へ流したというだけでなくて、それを通じて、人形浄瑠璃のような文化をも流通させているのだというふうに見ていきますと、いろんな問題が出てくるだろうと思います。
 最後に、鏝絵の話をいたします。私は現在、大分県立歴史博物館の顧問というようなことをしているのですが、開館する時に、大分県は鏝絵が全国で一番多いので、観客の通路に切り取ってきた鏝絵をはめこんだらという発想をしたのです。まあ、それは建築の都合で実現できなかったのですが、これからは、そういった保存を考える必要があると思います。鏝絵の件数は、全国にあって一番多いのは大分県で、その次に愛媛県ですから、これは全国区の遺産であると思います。鏝絵に限らず、こういったものを、いかに保存し活用するかというのが、これからの大きな命題になるだろうと思います。