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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇地域史と愛媛学


 森です。わたしは、数年前に1度伯方島に参りまして、あちらこちらを歩きました。その時は、将来ここで講演をするとは思いもよらなかったのですが、本日はよろしくお願いいたします。
 わたしは、愛媛学とは非常にいい言葉だと思います。と言いますのは、およそ20年前の日本の歴史学界では、京都あるいは江戸などをいわゆる「中央」ととらえ、そこ以外を対象とする歴史学は全部「地方史」だという考え方がありました。わたしは、この中央対地方という考え方は好きではありませんでした。これと同様のことですが、当時、日本海側は「裏日本」と言われていました。わたしは、その地域の一つである富山市でシンポジウムを継続して10回開催し、日本海文化の重要性を提唱してきました。そうすると、おもしろいことにマスコミ用語から裏日本という言葉が消えました。そもそも裏日本・表日本という価値観を伴った言い方は、今からわずかに100年ほど前から使われ始めたものなのです。江戸時代の終わりにアメリカ合衆国の軍艦が江戸湾に入ってきて、そこで外交交渉を行った。それで、江戸の辺りが日本の表だと考えられ、その地域を表日本と呼び、その反対側だから日本海側を裏日本と表現しただけのことです。
 こういうことで、中央・地方という価値観を伴った言い方も次第に無くなってきた。それとともに、地方は「地域」と表現され、その重要性が見直されるようになりました。例えば、大学が所在する地域の歴史を対象とした講義を開設している大学もたくさん出てきているようです。わたしは、日本列島のおもしろさは豊かな地域史の集まりにあると思います。この地域の見直しの中から地域学が生まれてきました。そして愛媛学もその一つではないかと思います。
 ここで、少し皮肉なことを言いますと、地域学が最も遅れているのは、東京都を中心とした関東です。関東には「関東学」というものはありません。これは、よく考えるとおかしなことなのです。考古学に関して言えば、日本で最初の発掘調査は、元禄5年(1692年)、徳川光圀により侍塚(さむらいづか)古墳(栃木県那須郡湯津上(ゆづかみ)村)で行われました。この学術調査は、世界的にもきわめて古い。また、日本の考古学は、明治10年(1877年)にモース(米国の動物学者)が大森(おおもり)貝塚(東京都品川区)を発見したことにより本格的に始まりました。さらに弥生土器も、明治17年(1884年)に現在の東京都文京区弥生2丁目で発見されたのが最初です。こうしてみると、これらはいずれも関東での出来事です。そこで、わたしは、来年は関東学を始めてみようかと考えています。