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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇塩の産地の特殊性


 さて、本題の塩の話に移らせていただきます。太平洋戦争中に、現在のインドネシアの小さな島の守備隊長として約50人の隊員を率いた経験を持つ方から聞いた話ですが、戦局の悪化により日本からの物資の補給が途絶え、自給自足の生活をしなければならなくなった。その時、50人のうちの30人ほどが主食のタロイモ作りを担当し、次の10人は雑用の係であった。そして、残りの10人は毎日塩作りを担当したそうです。これには驚かされました。後で考えると、この人たちは塩作りの仕方が下手だったので人手が10人も必要だったのですが、それを割り引いても、塩作りというものは、一つの人間集団の生活を支えるためには欠かすことのできないものであるということに、わたしは初めて気付かされました。そして、ひょっとしたら古代社会においても、塩がものすごく重要な役割を果たしていたのではないかと考えついたのです。
 わたしが塩の重要性を考えついたのと同じころ、木簡(もっかん)というものに注目が集まり始めました。木簡とは、板に記した古文書で、今日流に言えば請求書、納品伝票といった性格のものが多く、後者は荷札木簡とも呼ばれています。主に7世紀後半から8世紀を中心に使用されました。この時期の木簡は、現在約10万点が出土していますが、その中では、塩を運搬する際の荷札として使用されたものが大変多い。このことと、先ほどのインドネシアでの塩作りの話が結びついたのです。とにかく、塩は古代から重要なものだったということですね。
 奈良の都、すなわち平城京やその1代前の藤原京(奈良県橿原(かしはら)市)の遺跡から出土する塩の荷札木簡を見ますと、非常に多いのが若狭(福井県西部)から運搬されたことを示すものと、瀬戸内海に浮かぶ屋代(やしろ)島(山口県周防大島(すおうおおしま)のこと)からのもの、次に多いのが紀州(和歌山県)からの運搬を示す木簡、そして小豆島(香川県)、伊勢湾(三重県)および岡山県の児島からのものと続きます。ちなみに、児島は現在では陸続きですが、14世紀ころまでは島でした。
 それでは、当時の日本においての塩の生産は、今列挙しました限られた地域でのみ行われていたのかと言いますと、実はそうではありません。古代の塩作りには土器を使用し、この土器のことを製塩土器と言い、またそれを用いた製塩法を土器製塩と言うことは、先ほど説明がありました。したがって、製塩土器が出土すれば、そこで塩作りが行われていたと考えられます。当然、ここ伯方町からも出土しています。そして、ここで強調したいことは、製塩土器は割れた状態で出土するのが一般的なのですが、伯方町の岩ヶ峯(いわがみね)古墳からは完全な形のものが出土しているということです。これは全国的にも大変珍しく、5、6例しかないと思います。これまでに製塩土器が出土した場所は、北は陸奥(むつ)湾(青森県)から南は薩摩半島(鹿児島県)にまで広がります。ここで一つおもしろいことは、例えば能登半島(石川県)からも製塩土器は多数出土するのですが、その能登から塩が運ばれたことを示す木簡が、平城京跡からは1点も出ていないということです。ですから、当時の塩は、重要生産地のものがことごとく平城京に集まっていたわけではないのです。
 このことと関連する記述が『日本書紀』に見えます。平群真鳥(へぐりのまとり)という大豪族が天皇と争いを起こし、その結果殺されます。真鳥は殺される直前に全国の塩に詛(のろい)をかけ、天皇が塩を食することができないようにした。しかしその時、角鹿(つぬが)(福井県敦賀(つるが)市)で作られた塩だけを詛い忘れたので、これ以後、天皇は角鹿の塩のみを食するようになったと言われています。角鹿の塩については、日本海沿岸では、若狭湾や能登半島に次いで、敦賀湾からも製塩土器が多く出土しています。
 また、特定の産地の塩が重要視されていることについてもう一つ例を挙げますと、それは京都にある東寺(とうじ)で使う塩です。東寺は教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも言われ、真言(しんごん)宗の根本道場として弘法大師空海にゆかりの寺です。この東寺にかかわることが、10世紀に編さんされた『延喜式(えんぎしき)』(律令法の施行細則を集大成した法典)に出てきます。それによれば、東寺の講堂の仏像に毎日お供えする塩は、生道(いくじ)の塩を持って来なさいとある。しかも、きちんと年間に使う量も規定してある。生道とは知多半島の付け根、現在の愛知県知多郡東浦町生路(いくじ)のことですが、そこには伊久智神社があって、その境内からも製塩土器が出るのです。そうすると、生道でも塩を作るけれども、知多半島辺りの塩の集散地と見ることもできる。しかし、どうして東寺がわざわざ生道の塩を使うのか。四国辺りの塩を指定していれば、空海との関係で何か分かるような気もするのですが、実際、よく分からない。このようなことからも、塩はその産地、すなわちどこの塩なのかということが非常に重要視されていると言えます。ここで能登半島の塩について補足をしておきますと、ここからの塩は都に運ばれるよりも、もっぱら東北地方に住む蝦夷(えみし)との交易に使われたと考えられます。
 戦後の考古学においては、さまざまな文物は朝鮮半島から九州へ渡り、さらに、瀬戸内海や日本海を通って、しだいに東へと伝わったと考えられていました。つまり、文化の伝播(ぱ)の西から東への流れです。この考え方は大筋では間違いはない。ところがここ5、6年の間で注目されているのは、これとは逆の東から西への流れです。例えば、最も古い製塩土器は縄文時代のものですが、その出土地は霞ヶ浦(茨城県)周辺に集中しています。霞ヶ浦は現在は淡水湖ですが、中世までは入り海でした。また、松島湾(宮城県)周辺からも縄文時代の製塩土器が出ています。これは意外なことなのです。なぜならば、昭和30年代、製塩土器の研究が進展してきたころには、製塩土器の発祥地は大阪湾から瀬戸内海の辺りだと考えられていたからです。ただ、ここで注意すべきことは、関東地方および東北地方南部で見つかっている縄文時代の製塩土器と、大阪湾および瀬戸内海沿岸で見つかっている弥生時代ころからの製塩土器とのつながりは、もう少し研究する必要があるということです。
 また、わたしはかつて、紀淡(きたん)海峡および鳴門(なると)海峡周辺の製塩遺跡を追い掛けたことがあります。製塩土器から調査していくと、だいたい古墳時代の後期(6世紀から7世紀)ころで分からなくなってしまいます。土器製塩が行われなくなると製塩そのものが衰えたように思われるかも知れませんが、それは無茶な話です。それは、先ほどもお話ししましたように、木簡には塩についての記述がいくらでも出てくるからです。