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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇縄文時代を見直すなかで

長井
 それでは続きまして、先ほどわたしが取り上げました、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が小さな島の海岸にもあることにつきまして、森先生よりもう少し詳しくお教えいただきたいと思います。

森 
 長井先生が作られた「芸予諸島の縄文遺跡分布図」は、確かにおもしろいですね。この図を見ながら、何に似ているかなと考えていたのですが、わたしが先ほど申し上げました松島湾の縄文遺跡の分布とよく似ています。この遺跡には貝塚もありますが、製塩土器を出す遺跡もあります。近年現地へ行ったのですが、漁労を生業とする人が一般的には住まない場所に遺跡がありまして、「こんな所から製塩土器が出てきたのですか。」と、案内をいただいた方に言った覚えがあります。ですから、この分布図の遺跡の中でも、魚をとったり交通に便利なような場所にある遺跡はほかの理由が考えられるでしょうが、それ以外の場所にある遺跡については、製塩との関係が濃いようにも思いますね。縄文時代の芸予諸島の製塩を考える取り掛かりとして、この図は大変おもしろいと思います。
 ここで、縄文時代について少しお話ししますと、縄文時代のイメージが、考古学者が今から20年ほど前まで考えていたようなみすぼらしいものではないということが、ここ10年間ほどの発掘の成果でかなり分かってきています。その最も典型的な例が、東京都北区にある中里(なかざと)貝塚です。カキとハマグリの殻がそれぞれのシーズンごとにまとまって堆積(たいせき)し、全体の高さは3mほどになっている。この貝塚は、明治時代から知られていましたが、貝殻ばかりが出土して土器がほとんど出ないため、あまり注目されていませんでした。ところが最近の発掘で分かってきたことは、当時の海岸線に当たる所に棒杭(ぼうぐい)があり、それにはカキがくっついている。これは何を意味しているのだろうとふと考えると、これは、江戸時代に、現在の広島県辺りで行われていたカキ養殖の方法と同じなのです。そうすると、縄文人は、養殖とは言い難いにしても、少なくともカキが殖えるということに手を貸していたのではないか。しかも、この貝塚の全長は2km近くあります。そんなにたくさんの貝をその場所だけで消費したわけではないだろう。おそらく、干し貝に加工して遠隔地との交易に使われたのだろうと考えられています。
 このように、戦後の考古学者が長い間考えていた縄文時代のイメージは、きわめて実態よりもみすぼらしかった。現在ではここから考え直さなければならない。そうすると、日本文化の見方全体が変わってくる。こうした見直しのなかで、長井先生が作られた縄文遺跡分布図を見ましょう、ということです。そうすると、分布図に散らばる遺跡のなかにも、さまざまな役割を持った遺跡、一つ例を挙げると、水先案内のような人がいた所かもしれない場所などが当然含まれていると思います。そして、この見直しの上に、弥生時代、古墳時代、奈良時代をどう考えるかという課題が出てくると思います。