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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)蹄鉄鍛冶として河辺村へ

 ア 村に1軒の蹄鉄屋

 「もともとの出身は東宇和(ひがしうわ)郡高川(たかがわ)村です。今の西予(せいよ)市城川(しろかわ)町高川になります。父親は高川村で鍛冶屋と馬の蹄鉄(ていてつ)(馬のひづめの底につける鉄製の輪で、ひづめの保護をするもの)屋をしていました。昔は届出をして役場から鑑札をもらっていたようで、父親が大正11年(1922年)に高川村役場からもらった職工鑑札が残っています。また、今でもそうですが、蹄鉄を作るには国の免許が必要で、誰でもやれる仕事ではなかったのです。私は免許を持っていませんが、父親が持っていたので作ることができました。
 昭和13年(1938年)私が小学生の時、河辺村周辺に馬がたくさんいて、蹄鉄を作る仕事がたくさんあるということでこっちにやって来ました。高川村に蹄鉄屋は何軒かありましたが、この辺では鹿野川(かのがわ)に1軒あっただけで、そこも早くにやめてしまいました。後は大洲(おおず)と五十崎(いかざき)にありましたが、河辺村にはなかったのでけっこう仕事があったのです。その当時この辺には相当な数の馬がいました。馬車馬が多く、材木を積んでここから鹿野川まで運んでいました。帰りは店屋などから頼まれた揚荷(あげに)の荷物を積んで運んでいました。それが、昭和30年ころからだんだんと馬車馬に代わって荷を付けて運ぶ馬が多くなりました。馬の背中に鞍(くら)を置いて両側に3~4mぐらいの材木を載せて運ぶ馬です。今はスギやヒノキを切ると皮をつけたまま運んでいますが、あのころは山で皮をはいで乾燥させて軽くして運んでいました。だから馬につけて運ぶことができたのです。山から車の通れる道路までを馬に載せて運び出していました。」

 イ 馬を鍛冶場の中に入れて

 「馬主が馬を連れてここへやってくるので、馬を鍛冶場の中に入れて蹄鉄を合わせていました。馬のひづめを傷つけないように、うちでは鍛冶場の床に板をはっています(写真1-1-2参照)。中には、暴れる馬もいました。どうしても暴れる馬の場合は、枠を作ってその中に入れて蹄鉄を着けていました。馬がたくさんいたころには、毎日1頭や2頭は蹄鉄を着けていました。
 昭和33年(1958年)にバイクの免許を取ったのですが、それからは、惣川(そうがわ)(西予市野村(のむら)町惣川)や蔵川(くらかわ)(大洲市蔵川)などあっちこっちに行って合わせていました。馬によって足の形が違うので作ったときに馬主の名前を書いて置いておき、新しいものを作るときはそれに合わせるのです。馬車馬の蹄鉄は15~20日ぐらいですり減ってしまいますが、材木を運ぶ馬は一月ぐらいはもちます。また、日にちがたつと緩んだりするので一月に1回ぐらいはやりかえていました。
 この辺では昭和60年ころまで馬がいました。父親も昭和50年ころに馬を買って10年間ぐらい材木を運んでいました。馬は競馬にでるような細いスタイルのよい馬とは違い、体のがっちりした足の太い馬でした。」

 ウ 村の鍛冶屋は何でも作る
  
 「蹄鉄だけでなく、田舎の村の鍛冶屋なので何でも作り、修理もしました。鍬(くわ)などの農具はもちろん、林業が盛んな地域なので鉈(なた)や斧(おの)も作りました。エガマ(木の枝を切る鎌)などの刃物も作りました。戦前にはいろいろなところで農具市があり鍬や鎌(かま)を売りに出していました。この辺で大きい農具市は、城川町の竜沢寺(りゅうたくじ)境内で毎年4月8日のお釈迦様の誕生日(灌仏会(かんぶつえ))の時に開かれていました。その時は、城川周辺の鍛冶屋が競って新しい鍬などを作って出していました。私がまだ小学生で城川にいたころ、父親が農具市に出すので一緒についていったこともあります。高知の梼原(ゆすはら)町四万川(しまがわ)にある竜王さん(海津見(わたつみ)神社)の秋祭りにも農具市がありました。父親は一月以上かかって農具市に出す新しいものを作って、売り上げが70円あったと言っていました。戦後は農具市もだんだんとなくなりました。私の代になってからは出したことはありません。戦争中には父親が大八車(だいはちぐるま)(荷物運搬用の木製の人力二輪車)の車輪の修理もしていました。車輪の鉄の輪を替えるのです。蹄鉄鍛冶はうち1軒だけでしたが、普通の鍛冶屋はたくさんあり、この植松(うえまつ)地区だけで2軒ありました。鹿野川にも2軒あり、鹿野川からここに上がってくる間にも3軒ありました。河辺村周辺で10軒はあったと思います。」

写真1-1-2 いろいろな蹄鉄と床

写真1-1-2 いろいろな蹄鉄と床

大洲市河辺町。平成21年6月撮影