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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)親方は父親

 ア 一人前になるには10年かかる

 「昭和17年(1942年)に小学校を卒業してから父親の手伝いをするようになったのですが、戦争中で材料が何もないのです。燃料もなくて、松を自分で焼いて松炭を作っていました。火力が強いので松炭がよいのです。山なので松は何とか手に入りましたが、鉄がないのです。終戦前には供出もあったと思います。終戦後もしばらくは、鉄が手に入りにくい状態が続いていました。そのため、本格的に仕事を教えてもらったのは、昭和25年ころでした。蹄鉄でも鍬でも何でもそうだと思うのですが、すぐには作れません。かなりやらないと作れないのです。私の親方は父親ですが、けっこういろいろと厳しく言われました。ベルトハンマー(モーターとハンマーの間に帯ベルトを取り付け、動力でハンマーを上下させる機械。写真1-1-3参照)が設置される昭和29年(1954年)までは、鍛冶屋の仕事は2人で行っていました。向鎚(むこうづち)という重い大槌を打つサキテ(親方の指示で向槌を振り下ろし鉄を打つ人)と横座(よこざ)(ふいごまたは火床(ほど)の横で親方が座る場所)に座る親方の2人で行うのです。うちは親方である父親が横座に座り、弟子の私がサキテをしていました。父親の仕事を手伝うようになって7、8年間はそうしながら親方の仕事を見て覚えました。ある程度自信を持ってやれるようになったのは10年ぐらいしてからです。火床の温度や焼入れの時間を測るのでなく全てを経験と勘で行うのですから、本当に一人前になるにはそのくらいかかります。特に蹄鉄を作るのは、平鉄(平らな長方形の鉄)を焼いて馬の足型に合せて丸く曲げて行かなければならないので難しいのです。蹄鉄は今でも父親の真似(まね)はできないと思います。古い蹄鉄が残っていますが、自分が作ったものと父親が作ったものを比べるとすぐにわかります。」
 
 イ 二人鍛冶から一人鍛冶へ

 「ベルトハンマーを設置してからは、サキテの必要がなくなり一人鍛冶になりました。そのころは四国電力で電球か株を買わないと電気を引いてくれませんでした。それで少しですが、株を買って電気を引いてもらいました。燃料は、まだ松炭を使っていました。コークス(石炭を蒸し焼きにしたもの)を使うようになるのは、昭和30年代に入ってからだと思います。コークスは、大洲や八幡浜(やわたはま)、松山(まつやま)に燃料屋があって、そこから買っていました。最近はだんだんと手に入らなくなってきています。そのため、最近はちょっとした修理なら松炭を使っています。
 鍛冶屋が使う道具はいろいろありますが、主に火箸(ひばし)、鎚(つち)、金床(かなどこ)、角床(つのどこ)があります(写真1-1-4参照)。火箸も挟むものによっていろいろな種類があります。金槌も大きいものから小さいもの、柄(つか)の長いものから短いものといろいろあります。金床、角床は父親の代から使っています。鍬などを作る時は金床を使い、丸く加工する時には角床を使います。普通の鍛冶屋は角床をあまり使わないのですが、うちは蹄鉄を作るので必要でした。」

写真1-1-3 ベルトハンマー

写真1-1-3 ベルトハンマー

大洲市河辺町。平成21年6月撮影

写真1-1-4 金床

写真1-1-4 金床

大洲市河辺町。平成21年6月撮影

写真1-1-4 角床

写真1-1-4 角床

大洲市河辺町。平成21年6月撮影