データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)タンス店主として

 西予(せいよ)市野村(のむら)町は、山々に囲まれた典型的な農村地帯で、畜産(乳用牛)並びに養蚕で栄え、「ミルクとシルクのまち」といわれている。地勢の特性もあり、周辺の商業活動に影響されることがなく閉鎖的商圏ができあがり、昭和40年代までは商業活動も活発であった。しかし、40年代以降農林業の停滞、人口の減少、大型店の出店により商業活動も変化してきた。
 製造から販売へと転換をしたタンス店の変遷について、西予市野村町でタンス店を営む**さん(大正10年生まれ)、**さん(昭和20年生まれ)から話を聞いた。

 ア 職人を雇っていた時代

 職人を雇い、タンスを製造していた時代について、**さんは次のように話す。
 「私は内子(うちこ)町五城(ごじょう)の出身です。昭和16年(1941年)に結婚し、野村へ来ました。主人は、私より4歳上の大正6年生まれで、建具職人とタンス職人として働いていました。主人の出身は大洲(おおず)なのですが、小学校を卒業してから建具職人とタンス職人をしていた野村のおじの家に弟子入りしました。そして、一人前の職人になるように厳しく仕込まれたそうです。弟子は親方の指示通りに動くのが当たり前の時代で、指示通りにできないと叱(しか)られ、何か下手(へた)をすると親方からその辺にある材料の木を投げつけられていたと聞いています。
 結婚したころは、戦争中だったので物資の統制などもありタンスの注文はほとんどなく、建具の注文がぽつぽつとあったぐらいでした。戦後、タンスが売れ始めたので、親方であるおじから独立してここに店を構えました。最初は主人一人で作っていましたが、戦後の復興期でもあり、作った物がどんどん売れるので職人を雇ってタンスを作るようになりました。
 一番忙しかったのは、昭和25年から30年代にかけてです。その当時は、タンスがどんどん売れて本当に忙しかったです。職人や弟子を10人ぐらい雇っていました。主人が親方で、その下に職人が5人ぐらい、さらに弟子が5人ぐらいました。通いの職人もいましたし、住み込みの職人もいました。野村の人が多かったのですが、宇和島(うわじま)などから来る人もいました。職人同士の関係で、弟弟子だから雇ってもらえないかということもありました。職人の中には、ずっとうちで働く者もいましたが、2、3年で出て行く者もいました。住み込みの職人や弟子がいつも5人ぐらいはおり、店の2階にあった8畳ぐらいの部屋で寝泊りしていました。賄いが大変なので、お手伝いさんにきてもらっていました。私一人では店もあり、経理の仕事もあるので、忙しくてとてもできなかったのです。食事の支度は、お手伝いさんにお願いしていましたが、昼になると私が『ごはんですよ。』と声をかけます。若い子が多かったので、食事の時はにぎやかでした。時には、弟子同士でけんかになることもありました。その度に私は『ここでご飯を一緒に食べる人は、絶対に仲良くしていかないかん。』と諭していました。人を使ってやっていくのはいろいろと気を遣うことが多くなかなか大変でした。それを考えると、今は人がいないので楽です。
 弟子の年齢は15、16歳から20歳ぐらいまでです。一人前のタンス職人になるには、人にもよりますが7、8年はかかっていたと思います。最初は、鉋(かんな)のかけ方や材料が何かから覚えていかなければならないので時間はかかります。まじめにこつこつと努力する子もいるし、休みがちであまりやる気が見えない子などいろいろいました。給料は見習いの子は小遣い程度でしたが、職人さんには十分出していました。通常は8時から5時、6時まで、忙しい時は夜10時くらいまで仕事をしていました。職人だけでなく、昔の人はみんなよく働いていました。休みは特に決まっていなくて、仕事の暇な時に休んでいました。」

 イ お客さんはリヤカーを引いて買いにくる

 「お客さんは、野村町はもちろん魚成(うおなし)や惣川(そうがわ)、渓筋(たにすじ)、中筋(なかすじ)からも来ていました。まだ、車が普及していない時代には、お客さんはリヤカーを引いて買いに来ていました。その当時は配達をしていなかったので、お客さんは買ったタンスをリヤカーで持って帰っていたのです。一番ありがたかったのは、私の実家の近所の人がわざわざ内子の大瀬(おおせ)からリヤカーを引いて買いに来てくれたことです。歩いてでもまる1日はかかるのに、リヤカーを引いてここまで来てタンスを買ってくれました。リヤカーにタンスを乗せて帰る姿を見て、涙を流しなら『本当にありがとうございました。』と言ったことが忘れられません。今でも実家へ行くと、その方の仏さんを拝ませてもらっています。
 お盆、暮れと野村乙亥(おとい)大相撲前(旧10月)が忙しかったです。昔は、節目でタンスを換えようかという人が多かったのです。当時、タンスや家具には物品税が課せられていました。その分を、よくサービスで値引きしていました。支払いは現金の人もいるし、買う時に半分だけ入金して残りは後で払うという人もいました。また、何回かに分けて支払う人もいました。お客さんは農業や林業をしている人がほとんどだったので、お米や木材が売れてまとまったお金が入ると支払う人が多かったのです。タンス屋の景気が良い時は、農家の景気も良い時です。特に昭和20年代後半は養蚕の景気が良かった時代でした。この商店街も今は人通りも少なくさびしいのですが、昭和25、26年ころは人通りが多くて、お店にも人がたくさん入っていました。うちの隣は布団屋だったのですが、うちで婚礼家具を買って隣で布団を買うお客さんもいました。呉服屋さんもあり、娘さんの結婚が決まるとこの商店街に来て、嫁入り道具や衣装を揃えて買って帰るお客さんも珍しくはなかったのです。商店街の催しやイベントなども頻繁に行われていました。」

 ウ 主人は腕の良い職人

 「タンスの良いものは、ガタがこず、狂いがきません。引き出しも引っ張るとスッーと抜け、何年使ってもぐらつきがなく、ピシッとしています。下手なものは使っていると隙間(すきま)ができるのです。自慢のように聞こえるでしょうが、主人は本当に腕の良いタンス職人でした。弟子のころに相当厳しく親方から仕込まれたからだと思います。腕の良い職人もいましたが、主人の作ったものは狂いがない立派なもので、他の職人が作ったものより一枚上でした。そのため、お客さんからも『**さん(主人)が作ったものじゃないといけない。**さんが作ったものは、どれですか。』と聞かれることが多かったのです。同じ材料を使い、同じ形、大きさのタンスを作っても、主人が作ったタンスは他の職人が作ったタンスよりも高い値段を付けていました。それでもお客さんは買ってくれていました。職人にも腕の良い人とそうでない人がいましたが、作ったタンスはみんな同じ値段を付けていました。そうしないと職人は、自分の腕に自信を持っているので居てくれなくなるからです。
 買ってくれたお客さんに『**さん、いいタンスを作ってくれてありがとう。やっぱり**さんとこじゃないといけん。』と言われることが一番の喜びでした。」

 エ タンス屋の跡を継ぐ

 跡を継いだ**さんは次のように話す。
 「私は、昭和39年(1964年)に高校を卒業してタンス屋の跡を継ぎました。一人息子だったので外へ出るわけにはいかなかったのです。高校へ入学したころから、跡取りなのでタンス屋を継ぐことが当たり前のように思って継いだのですが、今考えると他人の飯を食べていたら良かったと思うこともあります。
 職人の手伝いで材料を乾燥させたり、出来上がったタンスを磨くことはありましたが、私はタンスを作るのではなく、配達や営業の仕事を主にしていました。高度経済成長のまっただ中であったので、作った物がどんどん売れました。作業場で作ったものが、店に出す前に売れていた時代でした。当時は、洋服タンスや整理タンスを主に作っていました。材料は、宇和(うわ)に木材市場があったので、そこで父が買ってきていました。ヒノキ、スギ、シイなどを使っていました。桐のタンスもありましたが、桐はなかなか手に入らないのと細工が難しいのであまり使わなかったのです。農家に娘が生まれると桐の苗木を2本植えて、嫁入りする時にタンスを作ったというのは明治時代の話です。かなり裕福な家でないと桐のタンスは持って行くことができなかったと思います。」

 オ 職人が作るタンスから仕入れたタンスへ

 「タンスを作っていたのは、昭和40年代前半まででした。父が昭和44年(1969年)に亡くなり、それ以後はうちでタンスを作って売ることがほとんどなくなりました。昭和40年代になって大量生産された安価な合板のタンスが出まわるようになり、うちのように職人が一つ一つ作るタンスがだんだんと売れなくなってきたのです。また、同じころに広島の府中(ふちゅう)や香川県の高松(たかまつ)から大手のタンスの卸屋がこの辺の店にも注文を取りに来るようになりました。作るよりもデザインが良く、価格も手ごろなものでした。材料を大量に安く仕入れ、大きな工場で新しい機械を導入して数を作るので、価格も比較的安いうえに専門のデザイナーがデザインしたものなので見た目がオシャレなのです。価格も見た目も、大手メーカーには太刀打ちできなかったのです。それで、タンスを作るのをやめて卸屋から仕入れるようにしたのです。
 昭和40年代は婚礼家具がたくさん売れていました。基本のセットは、洋服タンス、和ダンス、整理タンス、下駄箱です。それに、布団タンスを持っていく人もいました。その当時は、実家から嫁ぎ先へ嫁入り道具を持っていっていた時代です。一度、婚礼家具をお嫁さんの実家に持って行きます。そしてタンスの中に新調した着物などの衣装を全部入れて別な日に実家から嫁ぎ先へ運んでいました。そのため婚礼家具が売れると、お嫁さんの実家に運んで、その後で嫁ぎ先にも運ぶので2回配達をすることになり大変でした。近くならよいのですが、遠いところは本当に大変でした。松山も多かったのですが、この辺の娘さんは、中学校や高校を卒業すると大阪方面にたくさん働きに出て、そこで結婚することが多かったので、大阪へ何回も持って行きました。大阪だけでなく京都など近郊を入れると40~50回は行ったと思います。都会の道を走ったことがなかったので、運転がしんどかったです。向こうで買ったほうが便利だと思うのですが、親としては地元から持っていかなくてはいけないという気持ちが強かったのだと思います。
 今は、家にクローゼットや備え付けの家具がある時代なので、タンスを持って行く人は少なくなりました。今の娘さんは、嫁入り道具にタンスを買うのなら車を買ってくれという時代なので仕方がないのです。当時は忙しかったけど、物がたくさん売れて楽しかったです。お店も昭和40年代は繁盛していました。家具、タンス屋もそのころには野村町で4軒ありましたが、今はうちだけです。今は、産地直販の大きな家具屋が愛媛県にも進出し、ホームセンターにも安いものだったら置いてあるので厳しい状況ですが、『**さんとこでタンスを買って良かった。』と言ってくれるお客さんの声を励みに続けていきたいと思っています。」
 松山市三番町の家具店では、高度経済成長とともに、多くの家具・タンス店が製造から販売へと転換していくなか、手仕事にこだわり、創意工夫を重ねた家具職人の仕事を垣間見ることができた。一方、西予市野村町のタンス店では製造から販売へと転換していく地方のタンス店の様子を知ることができた。