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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)島の便利屋

 ア 駅のホームが渡海船の荷物でいっぱいに

 「ミカンの景気が良く、まだ中島に宅配便がない昭和40年代半ばには、宅配もしていました。ミカン農家の人が島外に住む親戚(しんせき)や子どもに送るミカンを運ぶのです。中島から船で荷物を三津浜港まで運び、それを車で国鉄三津浜駅まで運んで貨物車両に載せてもらうのです。当時の国鉄予讃線は客車の後ろに貨物車を連結していたので、それに積んでもらっていました。年末のお歳暮の時期には、1日に100個ぐらいのミカン箱を運んでいました。年末になると、渡海船で運ばれた何百個という贈り物のミカンが三津浜駅に持ち込まれ、駅のホームが渡海船で運んできたミカン箱でいっぱいになっていました。それを国鉄の職員がわずかな停車時間で積むので投げ入れるように貨物車両に積んでいました。ミカンが傷まないか心配するほどでした。松山市内なら三津浜港に船を泊めている間に、個人の家へ車で配達もしました。個人の家へ配達したのは、しばらくの期間だけで後には業者に任せるようにしました。私は自分の車で荷物を運んでいましたが、渡海船から揚がった荷物を駅に運び、松山市内に配達をすることを商売にしている人もいました。」

 イ 荷物1個から何でも運ぶ

 「渡海船は島の便利屋なので、荷物1個から何でも運びました。日用品やお菓子、酒、醤油はもちろん、アイスクリーム、雛(ひな)人形などの節句用品、家具、机やイス、棺桶(おけ)に至るまであらゆる物を運びました。フェリーがない時代には、小学校や中学校の先生の引越しの荷物も運んだことがあります。松山のクリーニング屋さんが中島で集めた洗濯物の入った籠(かご)も運びました。昭和40年代以降には、鉄筋やセメントなども運びました。農協などに頼まれて肥料も運びます。海の運送屋なので、頼まれれば何でも運ぶのが渡海船です。昭和30年代の手数料は、ミカン1箱(15kg)が15円~20円、お米1袋(30kg)が30円、お酒10本が100円、肥料1袋(20kg)20円、野菜1箱(10kg~15kg)20円、冷蔵庫、テレビ1台が200円、単車1台が200円でした。
 渡海船の数は昭和30年代で30隻以上あったと思います。そのころは、ミカン船や建築資材を専用で運ぶ船など運ぶものによって様々な船がありました。渡海船がたくさんいたころは、お互いによその渡海船よりも1円でも安くして荷物を運ぶというような競争をしていました。それぞれが農協と契約を結んだり、個人商店や土建屋と契約を結んだりしていました。」

 ウ 夜中に急病人を運ぶことも

 「渡海船は、旅客船でないのでお客さんを運ぶことはできないのですが、12名までは人を乗せることが許可されていました。運賃がフェリーより安かったので、乗せて欲しいと言うお客さんが多く、断るのに苦労しました。急病人も運んでいました。中島町立病院(昭和31年開院)ができる以前は、中島には小さな病院しかなかったので、『松山の大きな病院でないとどうしてもいかん。』ということになると、渡海船で急病人を運びました。町立病院ができてからも、夜中に連絡があって急病人を運んだこともあります。昭和40年代から50年代にはお産の人をたくさん運びました。中島の病院にも産婦人科はあったのですが、お産は松山の病院でする人が多かったのです。松山の病院で亡くなった人を船に乗せて連れて帰ることもありました。今はフェリーがあるのでそういうことはなくなりました。」

 エ 危うく海の藻屑に

 「休みは特にありませんでした。日曜、祭日も出ていました。忙しかったです。1年間で休むのは、正月3日間とお盆ぐらいです。お盆は休むといっても1日です。日曜を休むようにしたのは昭和50年代後半からです。少々海が荒れても出ていました。台風やよほど天候が悪い時に休むだけでした。昭和50年ころ、濃霧の時に大きな船とぶつかりそうになったことがあります。今ならレーダーやGPSもあるのですが、まだ羅針盤だけで航海していたので、濃霧になると危険でした。あらかじめ潮の流れを計算して羅針盤を合わせてまっすぐに舵(かじ)を取っているのですが、どうしても潮の流れが早くて流されてしまうことがあります。濃霧で視界が悪くても、出発してからの時間は計っているので、何分ぐらい走っているから今はこの辺だということはわかります。
 濃霧におおわれた釣島水道のあたりを航行している時のことでした。濃霧の時、船は警笛を鳴らして濃霧信号を出します。『ボオッー、ボオッー、ボオッー』と警笛が鳴っているのを家内が聞いて、私に濃霧信号が出ていると言うのですが、エンジンの音がうるさくて聞こえないのです。家内が大声で、『危ないから、船を止めて』と言うので止まってみると、5mぐらい前を山のように大きな船が横ぎっているのが見えました。あわてて後進したのですが、あのまま走っているとぶつかっていました。大きな船だったので、ぶつかると間違いなく沈んで海の藻屑(もくず)になっていたと思います。その時が一番怖かったです。」