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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(3)人とモノの流れの変化

 ア L字型の人の流れ 

 「昭和28年(1953年)に湊町(みなとまち)商店街のアーケードが完成し、松山の商店街復興のシンボルになりました。しかし、傘屋としてはアーケードができると雨が降っても傘がいらなくなるので、アーケードの設置はあまり歓迎することではなかったのです。それでも商店街全体で決めたことなので設置に賛成し、負担金も出しました。アーケードが完成してからは人通りも多くなり、『銀天街横のデパート』などと呼ばれ、商店街は今まで以上に賑(にぎ)やかになりました。人の流れが変わったのです。それまでは市駅から直接、三越へ行く人が多かったのですが、アーケード完成後は、市駅を降りて湊町商店街を通り大街道を通って三越へ行くというL字型に人の流れが変わりました。昭和40年代まではL字型の人の流れで商店街全体が賑やかで、それぞれの店も繁盛していたのですが、昭和43年(1968年)にフジ湊町店、ニチイ、いづみと立て続けにスーパーが開店して状況が変わりました。特に昭和45年にダイエー千舟町店が開店してから人の流れが変わりました。市駅から直接、ダイエーに向う人が増え、湊町商店街を通らなくなったのです。さらにスーパーに対抗する形で46年の三越の増床、いよてつそごうの開店で、市駅を降り、いよてつそごうからダイエー、千舟町経由で大街道を通って三越へ行き、百貨店やスーパーで買い物をする人が多くなったのです。昭和50年(1975年)にはL字型接点が谷間になり衰退しているということで、L字型接点にショッピングセンターを作る計画もありましたが、地権者の利害調整が困難で結局は立ち消えになってしまいました。」

 イ 中国製品の影響

 「昭和48年(1973年)にオイルショックがありました。そのころは雨傘の主流がナイロン製の傘だったので、問屋からナイロンがなくなるからと言われてまとめて傘を購入しましたが、傘の値段が上がることもなく、そんなに影響はありませんでした。昭和50年代後半からはテトロン製の傘が出始めました。テトロンになってからは値段が高くなりました。傘屋の経営が厳しくなったのは、昭和50年代後半から平成にかけて中国製の安価な傘が入ってきたからです。金額が安いので傘屋以外の店にも傘が並ぶようになりました。平成になってから安価な中国製の傘が出回った影響で、傘の価格が下がってきました。さらに、中国製の傘に押され国産で良いものを作るメーカーや扱う問屋がやめたり、倒産するようになったのです。『何である。アイデアル。』のコマーシャルで一世を風靡(ふうび)したアイデアル社も3年前に倒産しました。今年で店を閉めたのは、私たちの年齢や厳しい景気状況もありますが、今まで付き合いのあった良い傘を作るメーカーや問屋がやめたことも大きな理由です。
 閉店する時に、傘の修理道具や部品、骨などがもったいないと思い、問屋に要らないかと声をかけたのですが、もらっても修理する人がいないため、結局、誰も引き取り手がありませんでした。戦中、戦後のモノがない時代を経験している私たちの世代は、傘だけでなく何でももったいないから大切に使い、壊れても修理をして使いますが、今は傘でも何でも使い捨ての時代になり、つくづく時代は変わったものだと感じます。」

 ウ 惜しまれながら閉店

 「商売なので売り上げがたくさんあるとうれしいのですが、それだけでなくお客さんの信頼を裏切らない『こころの通う商売』をすることを信念としてきました。学校に『至誠一貫』という校訓があったのですが、学校にいる時だけでなくお店のお客さんにもその精神で接していました。お客様に『やっぱり、クジャク屋さんで買ってよかった。』と言っていただけることが一番の喜びでした。最初のころに傘を買ってくれた人が母親になり、その娘さんがお母さんと一緒に買いに来てくれたり、お母さんに勧めれられて買いに来てくれるというように、親子2代のお客さんもいました。今年(平成21年)1月に閉店したのですが、『本当に閉店するのですか。残念です。』と言って、なじみのお客さんがたくさん来てくれてありがたかったです。」
 モノの豊富な現在では、生活に必要なモノのほとんどは、工場で大量生産された製品を大型スーパーや量販店で安価で購入し、傷んだり壊れると捨てて新しいモノに買い替えることが当たり前になっている。傘専門店の調査から、かつては店も客も壊れたら修理をし、モノの寿命を全うさせようとしていた姿がうかがえた。