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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)父の姿を見て志した理容師

 ア 子どものころの岡村島

 「私は生まれも育ちも岡村島です。岡村島の中心集落は、木野山(きのやま)神社を境に宮浦(みやうら)と里浦(さとうら)に区分されます。父は里浦で散髪屋を営んでいました。戦前、島には散髪屋が4軒ありました。私が子どものころの岡村島は、今と違っていろいろな店があり、にぎやかでした。銭湯は3軒あり、食堂や旅館もありましたが、戦後なくなりました(昭和49年に民宿が1軒開業した。)。渡海船が何隻もあり(『関前村誌』によると、昭和6~9年ころ岡村丸、丸二、栄八、朝日丸、丸吉丸などが就航していたという。)、盛んに人の行き来がありました。戦前は行商人がたくさん来て、反物などの衣類を売っていました。島には鍛冶屋(かじや)も3軒あり、主に農機具を扱っていました。島では昔から農家が約8対2の割合で漁家より多いです。戦前には畳屋もありました。現在も職人さんはおり、頼めばやってはくれますが、それを商売にしているわけではないので、だいたいは今治の業者に頼んでいます。
 内藤さんという造り酒屋もありました。終戦後、島で何か娯楽をということで、内藤さんの酒蔵を利用して週に1回ぐらい映画を上映していました。当時は娯楽がなかったので、映画は島の人にとって唯一の楽しみでした。映画は邦画のチャンバラで高田浩吉や大河内伝次郎などが出ていました。戦後は酒造りをやめていたように思います。
 うちも内藤さん方の酒を売っていました。父が酒好きで、散髪屋の傍(かたわ)ら酒の小売りもやっていたのです。夕方になると近所の人がよく酒を買いに来ました。当時は4斗(約72ℓ)樽を家に備え付け、酒を1合(約180cc)枡に入れて計り売りしていました。酒は高かったので、1升(約1.8ℓ)も買う人はあまりいませんでした。1升の値段が、安い酒で85銭、内藤さんの『誉鶴(ほまれづる)』が1円5銭くらいしました。『誉鶴』はけっこういい酒でした。醸造用の水はこの島の井戸水です。昔は島でもいい水が豊かに出ました。井戸は現在も残っています。
 ほとんどの家に井戸がありましたが、何か所もあった共同井戸の水のほうが水質は良かったようです。水道が通ったのは戦後のこと(昭和26年ころ)です。現在の水道は、井戸水のところもありますが、白潟(しらかた)水源井戸や小大下(こおげ)島の石灰を採掘した跡のくぼ地にたまった水を利用しています(小大下島の石灰石鉱山の採掘跡の湧水が、飲料水に良いと分かり、村が譲り受けて水道工事を実施。小大下島と岡村島を海底送水管でつなぐ工事が完了し、村の水源地となったのは昭和52年から。)。
 関前の電気は中国電力のエリアですが、通ったのはかなり昔で、私が子どもの時には電気が通っていました(岡村への電気導入は、大正11年〔1922年〕の愛媛水力電気によるものが最初。後年中国電力により小大下島〔昭和初年〕、大下(おおげ)島〔昭和22年〕にも電気が引かれた。)。
 私が子どものころは小大下島で石灰石を盛んに掘っていました(小大下島で石灰石採掘、加工が始まったのは文政元年〔1818年〕ころといわれている。瀬戸内海航路に位置し、輸送の便に恵まれたことから発展した。ピークは昭和26年ころで、従事者百数十名、法人税その他の村の税収も多く、関連工業や海運、商業など村は活況であったが、資源の枯渇から昭和52年〔1977年〕に閉山となった。)。岡村の人も小大下島の採石場に仕事に出かけており、島の東の小惣津(こそづ)から小大下島まで渡し舟が出ていました。ここは岡村島と小大下島の一番近い海峡で、両島の行き来に便利でした。渡し舟は終戦のころまであったように思います。
 私が小学生のころ、島の尋常高等小学校は1学年が70人から80人もいました。小学校を卒業した後、進学するのはクラスに1人か2人くらいで、お金持ちの子が今治などの学校に行きました。私は小学校のころから父の姿を見て、将来は散髪屋になろうと決めていました。」

 イ 戦時中の思い出

 「尋常高等小学校を卒業した後、私は広(ひろ)(広島県呉(くれ)市)の海軍工廠(しょう)に入りました。後の第11海軍航空廠です。そこでは航空母艦に積む海軍機を作っていました。しかし体を悪くしたため1年半で島に帰ってきました。島では、父について本格的に理容師の道へ入りました。山も持っていたので農業も始めました。当時は食糧難の時代で、麦とイモを一生懸命に作りました。そうして島で2、3年過ごしました。その後一時教師を目指し、今治にあった伊予教員養成所(明治39年〔1906年〕、現在の今治市菊間(きくま)で開校した私立の教員養成所。昭和12年に今治駅近くに移転。)に入りました。当時、学生は徴用にかからなくてすみました。軍需工場に働きに行かなくてすんだのです。
 兵隊には昭和19年(1944年)9月2日に入りました。私は暁部隊(陸軍船舶砲兵で輸送船担当)に入りました。暁部隊の司令部は宇品(うじな)にありました。宇品に1か月おり、その後福山(ふくやま)に移りました。福山で一期の検閲(軍の要求水準を満たしているかどうか兵隊を訓練し検査すること)が終わりました。一期の検閲は3か月あり、これで何とか兵隊になれました。その後各配属に分かれ、高射砲担当の私は船舶砲兵として輸送船に乗り込むことになりました。輸送船に火砲を積み、敵の攻撃から守る役目でした。フィリピンに行くことになっていましたが、結局、輸送船には乗らずにすみました。もし行っていたら命はなかったと思います。その代わり、関門(かんもん)海峡にある和布利(めかり)陣地に配属されました。配属先は次々と代わり、一所に2、3か月しかいませんでした。鹿児島にも行き、門司(もじ)に帰って終戦になりました。終戦になった時はうれしかったです。その後はずっと島で生活しています。兵隊の間は、自分が散髪屋だということを周りにはいっさい言いませんでした。もし言ったらみんなに髪を切ってくれと頼まれ、自分の仕事ができなくなるからです。」

 ウ 理容師の試験に合格して

 「戦後は島で父と2人、散髪屋と農業をやりました。理容師の免許を取ったのは、昭和23年(1948年)です。当時理容学校もありましたが、私は学校には行かず、直接国家試験を受けました。理容技術は、小学校に上がったころからいつも父の仕事を見ていたので、クシやハサミの使い方は自然に覚えました。父についてお客さんの髪を刈り始めたのは、18、19歳のころで、兵隊に行く前です。手先は結構器用なほうだと思います。
 理容師の国家試験は松山でありました。年に1回だったと思います。試験内容は、人体の生理解剖、頭蓋骨の構成などで、特に頭に関してはよく勉強してないといけません。それに内臓関係など人体に関することや消毒方法なども全部勉強する必要がありました。父が持っている本を読んで一生懸命に勉強し、おかげで筆記試験は一発で通りました。後は実技試験ですが、これは各支部の技術者が審査します。実技試験も松山で受け、これに合格してやっと資格が取れました。」