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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(3)島の散髪屋として

 ア 島の生活の移り変わり

 「岡村島の人は病気になると、島に1軒だけある診療所に行くほかは、99パーセント今治の病院へ行っています(写真2-1-11参照)。橋がつながって本州と陸続きになりましたが、呉までは車で1時間近くかかるため、今治に船で行くのと時間的には変わらないのです(平成20年11月の豊島(とよしま)大橋完成により安芸灘(あきなだ)とびしま海道が開通し、広島まで陸続きとなる。)。橋が開通するまでずっと今治に通院していたため、呉に行く人はいないのです。呉は県外という意識があり、行きにくいように思います。私が結婚したのは25歳の時で、妻もこの島の出身です。結婚は島民同士が6割くらいでしょうか。広島県からもらう人は少なかったです。県境ですが、広島県とのつながりは少ないのです。
 去年、私は脳梗塞(のうこうそく)になりましたが、そのときは救急艇で今治の県病院に運ばれました。連絡をして波方(なみかた)から救急艇が来て、今治に着くまで50分かかりました。なんとか回復してまた山仕事にいけるようになりました。散髪屋の仕事は現在ほとんどありません。よく散髪に来ていた私と同世代のお客さんがほとんど亡くなってしまったからです。収入のことは考えず、自分の体を養生することを考えています。
 子どものころは島の人口も4,000人くらいおり、人の行き来も盛んでした。しかし戦後若い者が島から次々と出て行き、現在は600人台まで減っています(図表2-1-6参照)。出て行く先は今治など愛媛県内がほとんどです。私にも娘が3人と息子が1人いますが、みんなよそで暮らしています。島には就職先がないのです。島の小・中学校の子どももずいぶん少なくなりました(平成21年度の岡村小学校の児童数は11人、関前中学校の生徒数は7人。)。高校生は、下宿するか通学船で通っています。交通の便が悪かった昔は、村が建てた『関前寮』という寮が今治市内にありました。この寮のおかげで、今治の高校に進学することができるようになりました。私の長女も関前寮に入りました。
 島の中の助け合い組織である『側組(がわぐみ)』(関前村誌(②)によると、戦前は講組織で行われていたという。)は、もとは20軒くらいで1つの側組を構成していたのですが、現在は10軒くらいに減りました。昔の側組2つが合併して1つになっていることも多いのですが、それでも構成する軒数は少なくなりました。冠婚葬祭の助け合いなど、側組のつながりは昔も今もそんなに変わりません。島には高齢者が多いですが、村の行事は親族も手伝ってくれるのでなんとかやっています。9月15日に神輿(みこし)の祭り、弓祈禱(きとう)は旧暦の2月です。こういった行事には島から出て行った人も帰ってきます。昔は島に12組の側組があり、祭の当番も12年に1回の割合で当たっていたのですが、組が少なくなったため、祭の当番が早く回ってくるようになりました。これからますます人口が減ることが予想されるため、将来はやめることになるのではと心配しています。」
 昭和50年(1975年)関西学院大学発行の『岡村島(④)』によると、当時岡村島には16の側組があった。もとは岬(はな)・風呂・開地(かいち)・向(むかい)・宮ノ鼻・西・園地(おんじ)・郷内(ごうない)・城ノ下・中の10であったが、後に白潟(しらかた)・本岬(ほんはな)・東・中二(なかに)・城ノ下二・城ノ谷(じょうのたに)の六つが増えたという。側組の機能は、葬式の世話と村仕事に大きく分けられる。

 イ 島の情報センター

 「客商売ですので、お客さんとの会話は大切です。散髪の仕事は刃物を使いますので、集中力が要求されますが、慣れれば話をしながらでも自然に手が動きます。
 店を長くやってきましたが、難しい客はほとんどおりませんでした。しかしよそから来た初めての客には気を遣いました。店に入ってきた雰囲気でどんな客か大体は見当がつきます。島のお客さんは完全に私にまかせてくれるので気楽でした。しかし刃物を持つ仕事ですから、神経は使います。『ごめんなさい。』で済めばよいのですが、そうはいきません。
 散髪をしている1時間くらいの間は、ほとんどお客さんと話をしていますし、順番を待っている客も会話に加わりますので、自然にいろいろな情報が入ってきます。散髪屋はそういう面で、町のことをよく知っている職業ではないでしょうか。話題は昔も今も日常生活のことが中心です。狭い島のことですから、個人的な話を聞いてもそれを別の客には言えません。30年ほど前までは、店に将棋盤を置いてあったので、散髪せずに将棋だけ、話だけに来るお客さんも多かったです。そんな人たちも今はほとんど亡くなりました。地域の人たちとのつながりは、私にとって大きな財産です。
 昭和20年代後半から現在まで、島の散髪屋は2軒のままです。もう1軒の散髪屋は、息子さんが後を継ぐことになっており、現在は親子でやっていますが、私には後継者がいないので私の代で終わりです。しかし元気なうちは続けるつもりです。」
 島の散髪屋としての**さんのあゆみは、戦前から戦後、そして現在に至るまでの理容業の歴史そのものであった。また、**さんの話を通して、過疎化が進む島の産業や人々の生活の様子を知ることができた。

写真2-1-11 今治との連絡フェリー

写真2-1-11 今治との連絡フェリー

今治市関前岡村港。平成21年9月撮影

図表2-1-6 関前村の人口推移

図表2-1-6 関前村の人口推移

『関前村誌(②)』から作成。