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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)水族館のあゆみ

 ア 長浜町のシンボル

 「私は町の職員として、昭和50年代に3年間水族館に勤めました。長浜水族館は、長浜町の町営でした。水族館のあった場所は県立長浜高等学校の隣で、現在保健センター(大洲市長浜保健センター)のある所です。
 私は白滝(しらたき)(現大洲市白滝)の生まれです。水族館ができたのが昭和10年ですから、物心ついた時には水族館がありました。学校の遠足か何かだったと思いますが、国鉄(現JR)に乗って水族館に行ったことがあります。私は最初、白滝の森林組合に就職していましたが、昭和30年(1955年)に白滝村が長浜町と合併したのを機に長浜町役場に入りました。
 水族館は町営のため、勤務する職員は町職員です。私も役場の人事異動で水族館に勤めることになりました。私が勤めていたころ、水族館の正式な職員は私1人だけで、あとは嘱託の掃除のおばさんが1人、入口のチケット売り場のおばさんが1人の計3人でした。おばさんは2人とも水族館の近所の人でした。魚の世話は私1人がしていましたが、そんなに忙しいというわけでもなく、比較的のんびりとした職場でした。
 当時の入場料は大人100円でした。水族館は冬の間、12月から3月まで閉館します。お客さんがあまり来ないためです。昔は水族館のすぐ近くに長浜海水浴場があり、夏は海水浴客でにぎわっていたため、水族館を訪れる客も多かったのです。団体客がバスで来ることもありました。学校の遠足や地域の子ども会行事などで来ることが多かったです。
 しかし私が勤めていたころには海水浴場の海岸線が変わってしまい、海水浴ができなくなっていました。潮の流れが複雑で危険だったこともあります。そういうわけで、海水浴場は橋(新長浜大橋)の向こう(西)の沖浦(おきうら)に移りました。しかし最近は、もとの海水浴場でもまた泳げるようになっています。昔に比べるとテトラポットなどの護岸工事がされ、海水浴ができる海岸はずいぶん狭くなりました。もっとも海水浴客もそんなには来ませんが。
 水族館に来るのは県内のお客さんだけです。私が勤めていた当時は、宇和海沿岸の明浜(あけはま)や三瓶(みかめ)の人もよく来ました。その縁で明浜の人から『めずらしい魚が獲れたのだが、来ないか。』と水族館に電話がかかることもありました。
 長浜の町にとっても、水族館と開閉橋(写真2-2-4参照。昭和10年〔1935年〕に開通した日本最古の道路可動橋。赤色のバスキュール〔跳ね上げ〕式鉄鋼開閉橋で、長浜の町民は親しみをこめて『赤橋』と呼んでいる。)は町のシンボルでした。町民も水族館にはよく来ました。海辺で育った町の人も、水槽の中で見る魚はちょっとちがっていて面白かったのでしょう。町に娯楽場はそんなになかったのです。町の社交場のような役割も果たしており、お茶を飲みながらあれこれ世間話をする場でもありました。地元の顔見知りの人からは入場料は取ってなかったように思います。役場が近いので、昼休みには役場の職員もよく話に来ました。こうした地元の人々との交流の中で、めずらしい魚があがったという情報もすぐに寄せられるようになったのです。ある時漁師の人から大きなアナゴがあがったという連絡があり、見に行ってびっくりしました。胴回りが40センチ、体長が1mをはるかに超える大アナゴでした。その時はマスコミが取材に来て、新聞にも載りました。お客さんもみんな驚いていました。NHK松山放送局が、夜の魚の様子を取材に来たこともありました。その時私は鍵をNHKの人に渡して、『適当に撮影してください。』と言って家に帰りました。おおらかな時代でした。」

 イ 生き物を世話する難しさ

 「水族館の開館時間は、町役場と同じで朝8時半から5時までです。開館前や閉館後にする仕事は特にありません。開館時間中、私は魚の世話をしていますが、魚屋にはしょっちゅう出かけました。その日の朝あがった生きた魚を仕入れるためです。水族館の狭い水槽で飼育していると、どうしても魚は早く死に病気にもかかります。そこで新しい魚を補給するため、魚屋さんに度々出かけたのです。行き先は本町通(ほんまちどおり)の出口にある濱屋さんや、その近辺の魚屋さんです。
 水族館の仕事で一番つらかったのは、養魚池で飼っていたハマチが全滅したことです。一週間くらいの間に50~60匹も死にました。かなり大きくなっていただけに、あれはショックでした。水槽や養魚池の水は、常にポンプで長浜沖の新鮮な海水をくみ上げて循環させていたので、水が原因ではありません。宇和島の水産試験場の人にみてもらいましたが、栄養の偏り(エサ)が原因ではないかということでした。ハマチにはエサとしてサンマやイワシを与えていました。これは魚屋で仕入れる冷凍のものです。水産試験場の指導で、栄養剤や抗生物質をエサに混ぜてやるようにしました。
 魚の種類によって与えるエサは違います。ほとんどの魚はオキアミがエサでした。オキアミは釣具屋で仕入れます。エサやりのタイミングと量は、水槽の底に沈んでいるエサの量を見て考えました。
 冬の間は閉館しますが、魚の世話はもちろん毎日していました。掃除のおばさんはともかく、チケット売り場のおばさんは、冬の間は来ません。
 水槽の掃除は週に一度くらいで、最低でも月に2回はする必要があります。水槽の下に敷いている砂も洗わないといけません。水槽の数は30くらいあり、1人で掃除するとけっこう大変なので、高校生のアルバイトを雇いました。ある程度要領を教えると、全部やってくれました。
 一番忙しいのは夏休みで、お客さんは、多いときで1日300人くらいだったでしょうか。私が勤めていたころにはすでに自家用車が普及していたのですが、水族館には駐車場がないため、近辺の道路端に適当に止めていたように思います。水族館は4月から11月までの間は無休でした。その間、私は適当に交替して休みを取りました。
 敷地内には動物小屋もありました。入場門を入って正面に水族館本館があり、右手にあった動物小屋にはサルがいました。私は特に世話をした記憶はありません。おばさんたちやお客さんがエサをやったりしていたようです。門を入って左手の動物小屋には池があり、私の前にいた職員がアヒルを飼っていました。私が子どものころにはここにクジャクがいたように思います。職員の事務所は入場門の建物にありました。ここの2階は物置でした。
 水族館の仕事で一番気を使ったのはポンプです。ポンプが止まったら水槽に供給する新鮮な海水が止まり、水槽の中が酸欠になるため、魚が全て死んでしまうのです。したがってポンプのスイッチは昼も夜も毎日入れっぱなしで、故障したときは専門家にすぐに修理してもらう必要がありました。水族館の切符売りをしていたおばさんが水族館のすぐ裏に住んでおり、ポンプが止まると夜中でも連絡してくれました。水族館のポンプ室は、動いているときは音がしているので、止まるとすぐわかるのです。ハマチが大量死した後に、養魚池や各水槽にエアーを送る装置も取り付けました。
 病気で死ぬ魚は少なく、ほとんど寿命が来て死にますが、種類により寿命の長短はありました。エビはすぐ死にました。エビはイセエビやクルマエビなどがいました。サメやエイは建物の外にある飼育プール(養魚池)にいました。ここではタイやヒラメなどの比較的大きな魚を飼っていました。館内の小さな水槽で飼っていたのは、オコゼ、アナゴ、タコなどです。アンコウやカブトガニは私が勤めている時はいませんでした。長浜水族館の魚は海水魚だけで、ほとんどが伊予灘近海でとれるものです。イセエビも近海で獲れた物でした。
 パートで来ていた2人のおばさんは長いこと勤めていたので、いろいろ館内のことはよく知っていましたが、魚のことは知りません。掃除のおばさんは、掃除が終われば仕事は終わりで、入場券売り場のおばさんは一日そこに座っています。町の職員は3年くらいで異動するので、水族館のことを何でも知っている古株はいないのです。魚が好きで水族館勤務を希望したというのではなく、役場の人事異動で水族館勤務になっただけなので、新任の者は魚のことについて勉強する必要がありました。生き物が相手なので、引継ぎは重要でした。」

写真2-2-4 開閉橋

写真2-2-4 開閉橋

大洲市長浜町。平成21年6月撮影