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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)二百年の歴史を刻む

 ア 岡城館の起源

 「<**>岡城館は、西条藩が18世紀に開発した多喜浜塩田の管理役(惣肝煎役(そうきもいりやく))であった藤田初右衛門(1770~1830年)が役宅内に建てた剣道場です。藤田初右衛門が着任したのが寛政9年(1797年)ですから現在まで約200年の歴史があります。このとき初代館長の藤田初右衛門は、近郷近在の剣道を志す人々をみな集めて、身分に関係なく剣道を教えました。しかも剣道を通しての人材育成、つまり青少年教育を無償で行ったのです。さらに着るものがない門下生には着るものを与え、食べるものがない門下生には食べるものを与えたといいます。最初から地域に開かれた道場だったのです。塩田経営により得た利益を、人材育成という形で地域に還元したのです。ですからこの道場からは、身分に関係なくすばらしい人材が育ち、地域との深いきずなが生まれました。

 <**>そもそも『岡城館』の名前は、創設した藤田家の祖先が中世に居城とした岡崎城(新居浜市郷(ごう)山)に由来すると聞いています。しかし最初からそう呼んだわけではありません。現在岡城館のある場所には西条藩の塩役所があり、藤田家の屋敷は少し北にあったのですが、明治維新の後、この役所が藤田家に払い下げになったため、藤田家本家がここに移りました(明治2年)。当時は『藤田練武場』と呼んでいました。

 <**>おそらく『岡城館』という名は、第3代館長藤田吾郎先生(1833~1912年)の時代につけたのではないかと思います。この藤田家の屋敷全体を『岡城館』と呼び、屋敷の中にある道場を『練武場』と呼んでいたのではないかと思います。

 <**>石垣を含めてこの屋敷全体がお城のようであるため、『岡城館』の名がつけられたのではないでしょうか。昭和に入り、第4代館長藤田新治先生(1876~1954年)の時代に道場を建て替えたのですが、このときに道場の名前として『岡城館』が出てきます)。

 <**>いずれにしても道場を建て替えた昭和4年から道場を『岡城館』と呼ぶようになったのでしょう。岡城館の流派は『眞陰流(しんかげりゅう)』と聞いています。これに関する目録や巻物が伝えられています。

 <**>第3代館長の藤田吾郎先生が、『眞陰流』開祖から15代目にあたる塩出文六という人から免許を相伝しました。柳生(やぎゅう)新陰流もこの流れの一つでしょう。眞陰流の巻物や目録を見ると、型などの具体的記述はなく、『猿飛』、『月影』などの名称のみが書かれています。これが何を意味しているのかは、師匠から直接教えられ、体で覚えた相伝者にしか分からないのです。

 <**>明治になり武士階級はなくなりましたが、国威発揚のため武術は奨励されました。武術の各流派を統合するため軍人と武芸者が集まり、明治28年(1895年)に『大日本帝国武徳会』ができます。このときに剣術各流派の型を集めて『日本剣道形』というのを作ったのです。私らが習ったのは昭和の時代で、流派はなくなっていたのですが、歴代館長は『眞陰流』の流れは踏まえた上で教えられていたのではないでしょうか。」

 イ 戦後の県剣道界と岡城館

 「<**>終戦までは岡城館でも剣道の稽古(けいこ)はずっと行っていました。終戦になり、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により剣道は禁止されます。このころ剣道に似た『撓(しない)競技』というのがありました。

 <**>剣道は武道ですが、『撓競技』はスポーツとして始まり、相手に竹刀のようなものを当てることを競うだけのものだったらしいです(撓競技は、剣道の面に当たる防具をマスクと呼び、竹を八つに割って白い布で包んだ軟らかい竹刀を使用し、剣道でいう面・胴・小手などの技を時間内に何回取るかで勝敗を決めた。)。

 <**>みんなが剣道をしたいとGHQに陳情して、やっと許可が下りたのが昭和25年(1950年)です。全日本剣道連盟ができたのが同27年のことでした。愛媛県では同25年に剣道が復活し、剣道連合会が結成されました。戦後5年間は剣道ができなかったので、みんなうずうずしていたのです。個人で鍛錬はしていたでしょうが、表だった剣道の稽古は岡城館でもできませんでした。
 GHQに剣道復活を申請するにあたっては、青少年の健全育成ということを強調しました。許可が下りてすぐに愛媛県では組織作りをして大会を持つようになりました。昇段試験もさっそく昭和25年に松山で実施し、その時後に岡城館5代目館長になる藤田吉道先生も審査員を務められました。
 私の持っている岡城館が県大会で優勝した時の写真には、昭和27年県下第3回剣道大会とあるので、25年に戦後第1回の大会が開催されたものと思われます。
 また、昭和37年に全国の剣道場の道場主が集まって組織されたのが、全日本剣道道場連盟です。全日本剣道連盟の傘下組織として、少年の健全育成と剣道普及を目的に発足したのです。以前は子どもの県外での試合はできなかったのですが、道場連盟ではこれを実施しました。
 子どもの大会は、県内では昔からやっていました。私も小学校4年生から出場メンバーに入れていただき、6年生の時は大将として試合に出ました。予選を勝って松山での県大会に行きましたが、そのころは前日に汽車で行って旅館に泊まりました。県内での交流・大会は盛んに行われていたのですが、県外との交流・大会はいけなかったのです。ところが道場連盟ができてからは、東京の日本武道館や水戸(みと)の東武館(とうぶかん)などにも行けるようになったのです。道場連盟では、昭和46年(1971年)からハワイとの相互訪問親善試合も実施しており、**君や**君も日本代表として参加しています。
 わたしは昭和30年から10年ほど剣道を離れていましたが、ちょうど道場連盟の充実期で子どもたちも増え、館長藤田吉道先生に呼び出されて40年から子どもたちの指導に参加しました。昭和45年からは、岡城館主催で、他県から少年剣士を招いて『近県招待新居浜市少年剣道大会』を開催しました。これが昭和60年まで行われました。

 <**>道場連盟の大会で、各道場の代表チームによる道場大会というのがあります。小学生や中学生、そして大人が入りチームを作ります。県で勝ったら全国大会に行けます(全日本剣道道場対抗優勝大会:子弟同行の精神を主眼にし、指導者と少年が一体となる大会。先鋒は小学生、次鋒中学生、中堅25歳以下、副将26歳以上、大将35歳以上からなる各道場のチームが出場する。)。

 <**>国際交流も道場連盟がやり始めて、それに全日本剣道連盟が続いたのです。道場連盟はそうした新しいことを次々と試みた組織だったようです。ハワイとの相互訪問親善試合も当時の学校教育ではなかなか認められなかったことですが、道場連盟だからできたのです。

 <**>ハワイにも剣道の会が三つか四つくらいあり、私たち遠征した日本代表メンバーと現地の子どもたちが集まって親善稽古や試合をしました。向こうは日系人がほとんどでした。先代館長の藤田吉道先生が道場連盟の役員をしていましたので、岡城館の門下生にもよく声がかかり、盛んに国際交流をしました。ハワイとの親善は4、5回あったと思います。

 <**>私が指導者をしている時には、カナダから14、15人の子どもがやってきて、岡城館で一緒に稽古をしました。しかし現在、国際的な交流はなくなりました。」