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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)日常生活の中で

 ア 町の楽しみ

 町の遊びや娯楽について、酒井さんと河野さんが話す。
 「4月の節句には、ひな祭りにお供えしたものを持って、家族で波止浜公園にお花見に行っていました。波止浜公園にはサルがいて、近辺の方々(ほうぼう)から人が集まってにぎわっていました。また、波止浜公園にはダンスホールがあって、波止浜じゅうに音楽が聞こえていました。私(**さん)の姉はよく行っていたと思います。
 私(**さん)が子どものころ、花見の時には、仲之町や問屋町の子どもが団体で波止浜公園に行って、小さな陣地をつくり、相手の陣地を壊し合って遊んでいました。本町は家族で行っていたので、そのような陣地はつくりませんでした。造船所に勤めている人たちも、仕事を終えてから波止浜公園に行って夜桜見物と慰労を兼ねて花見の宴を開いていました。
 私(**さん)が子どものころは、野球を龍神社の鳥居近くの広場でたびたびしていました。子どもが本町組と新町組に分かれて対戦し、『お宮に入ったらホームラン』とか、ルールがありました。お宮でチャンバラごっこをしたり、木登りをしたこともあります。水泳は、龍神社の鳥居前の海でしていました。
 今の波止浜水門のあたりに対岸まで立て網を仕掛け、潮が引くのを待ってボラなどの魚をとっていました。私(**さん)の父が世話をしており、投網の人はいくら、三角網はいくら、船はいくらというように入漁料をとっていました。しかし波止浜水門ができてからはしなくなりました。
 本町の南側、龍神社の北側に宮ノ下川が流れており、夏の夕方になると、天和(てんわ)橋のたもとに縁台を出して将棋をしていました。町のみんなが涼みに出てきていました。」

 イ 水を求めて

 波止浜の町は埋め立てて造成された町であったから、住民を悩ませたのは、飲料水や生活用水を確保することであった。**さん、**さん、**さん、**さんが水の確保について話す。
 「昭和20年代まで水道がありませんでしたが、私(**さん)の家には井戸がありました。井戸から手押しポンプで家の裏に設けたセメント製のタンクへ水を揚げて、炊事場や風呂に流れるようにしていました。山手でしたから、井戸水が枯れることはありませんでした。本町では、井戸が各家にだいたいありました。家に井戸がない人は、西宝院(さいほういん)の横にある井戸(図表3-1-3のカ)や、瑞光寺(ずいこうじ)の門前にある井戸(図表3-1-3のウ)に行って水を汲(く)んでいました。手押し車に樽(たる)を積んで、朝4時ごろ、早い者勝ちで汲みに行っていました。朝からガタガタと車の音が響(ひび)いていました。井戸水を手押しポンプで汲んで、家に積み帰り、それを使って生活していました。
 波止浜には、裕福な町人が造った井戸が、町の山手のあちこちに残っています。財力のある町人は、自家用の井戸を持ち、ポンプで汲み上げて自分の屋敷へ引いていました。ある時、頼まれて私(**さん)はある家のポンプの修理をしたことがあります。升八木(ますやぎ)邸には大きな井戸が今もあります。
 海岸沿いでは塩水が混じるので井戸水は飲めませんが、果物を冷(ひ)やすのに使いました。私(**さん)の父は、戦前から波止浜で簡易水道の事業をしていました。新町の奥に池があり、その近くの山手にタンクを設置し、ポンプで汲(く)み上げていました。タンクのある場所の標高が高いので、パイプで民家へ自然に流れ、波止浜の町内へ給水していました。ずっと前は1日中給水していたらしいのですが、私が小学生の時には、私が水道のバルブを開けに行き、3時間ぐらいしたら父がバルブを閉めに行っていました。需要が多かったから時間給水にしたのではないかと思います。上水道ができると、簡易水道の配管は不要になり、その後始末で多額の費用がかかりました。
 上水道は今治から分水してもらって、なれあい坂(ざか)(今治市近見(ちかみ)地区と波止浜地区の境)を越えて波止浜へ引いてきました。昭和28年(1953年)に波止浜の町内各家に引かれました。」
 現在(平成21年)も町並みの中にあちこちに石造りの井戸を見ることができ、石に刻まれた文字から、江戸時代後期から大正時代にかけて有力な町人が造ったことがわかる。昭和になると簡易水道が作られ、さらに上水道へ移行した。時代とともに移り変わりがあっても、水は人々の生活と深く結びついているのである。