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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)造船業のにぎわい

 製塩工場の後、造船所で仕事をした**さん(昭和9年生まれ)は次のように話す。
 「私は製塩工場が廃止された後、昭和34年(1959年)から造船所で40年間働きました。クレーンの運転士をずっとしていました。最後は責任者として、部下を30人持ったこともありました。
 地元の下請けや関連会社の人で、材料を積んでやってきて自分たちの仕事の順番を待っている人がいたりします。その人たちを1時間遊ばすと、ものすごい損失です。だから手順を考えたり、仕事の段取りを変えたりします。そうすると『順番を狂わせるのか。』と社内から反発が出ることもあり、いろいろ苦労がありました。
 社長は、納期が遅れるとものすごく怒ります。そのため担当技師が左遷されたこともありました。納期に間に合わせるために、部下は休ませて、自分だけが昼休みなしで働いたこともありました。
 造船所では、船体を作ったり、鋼材を組んだり、船からエンジンを揚げたり、いろいろ仕事があります。夜勤もあって徹夜で仕事をすることもありました。残業が月に200時間以上ついた時もあって、給料も残業代の方が多いときがありました。造船所の近所の商店や食堂などでは、夜中も人が大勢出入りしました。
 社長は、『自分の従業員の面倒をみてやりたい。』と企業年金制度を作ったり、従業員の妻の誕生祝いにすき焼きセットを送ったりと、人情味もありました。」