データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(4)海の幸を商う

 伊予灘に面した上灘には、豊かな海の幸を日々の生活の糧にしている人々も多い。上灘灘町で海産物販売店を長年営んできた**さん(昭和15年生まれ)に話を聞いた。
 「上灘灘町の近くに漁業集落の小網(こあみ)があります。戦後間もないころ、小網ではそれぞれ漁師さんが釜を持っていてイリコを作っていました。イリコは公民館の広場に集めていました。昭和28年(1953年)に町のすぐそばに上灘港ができ、30年に上灘漁業協同組合が発足して事務所が港にできましたが、ずっと小網で集荷していました。当時は担ぎ屋さんが上灘灘町近辺にたくさんいました。イリコを担いで、南予や中予のあちこちに売りに行っていました。
 イリコ袋は3kg入りで白い紙製です。特殊な紙袋で、広島県竹原(たけはら)市で作っています。吸湿性や通気性にすぐれています。冷蔵庫のない時代には、この袋に入れて天井からぶら下げたり、2階に置いたりして保存していました。
 イリコの販売は父の時代からやっています。かつては3kgの袋入りイリコがよく売れていましたが、1kgになり、今はもっと少量のものしか売れなくなりました。今は海産物全般を売っています。海産物は、伊予市郡中(ぐんちゅう)や松前(まさき)町で製造されたものが多いです。
 今はミキサーで身をつぶしますが、昭和20年代には、魚を臼(うす)と杵(きね)でつぶして、じゃこてんやかまぼこ、ちくわを作っていました。フカのキモをつぶすと油がとれます。それをてんぷら油にしていましたが、臭(にお)いが強く、てんぷらに独特な臭いが移るので好まれませんでした。材料の魚はハランボやイシモチなど、いろいろな魚が混じっています。ハランボは、かつてはよくとれましたが、今はこの辺りでとれなくなりました。イワシはとれる時ととれない時の差が大きい魚です。
 昭和30年代には、上灘灘町でイリコ以外にも珍味を作っていました。漁業組合は、イリコの加工とは別に、浜で干しエビやシタビラメを作っていました。また、珍味海産物を製造する業者が3、4軒灘町にありました。海産物の加工場では、女性が10人から20人くらい、エビやナマコを加工する仕事をしていました。湯掻(ゆが)いて乾燥して、機械でエビの皮をむくのです。今は1軒で、伊予市郡中の大手企業の下請けをしています。
 エビコギ漁が盛んで、漁師は夕方出て行って夜間に魚をとり、朝の2時ごろ帰ってきていました。漁場が近く、上灘のすぐ前の海で小さな木船(もくせん)で漁をしていたので、燃料代が安く、労働時間も短く、エビなど海産物の価格もまずまずでしたので、エビコギ漁だけで生活ができたのです。今は近くでとれないので遠くまで行きますが、魚価が下がり、大きな鉄鋼船で燃料代がかさむなど経費がかかるので儲(もう)けが少ないようです。
 かまぼこ製造も長くやっていました。原料の魚を毎日揃(そろ)えるのが大変なので、だれでもできる仕事ではありません。できたかまぼこは、町内一円の小売雑貨店に配達して卸売りしていました。自転車で配達していた時もありましたが、そのうち単車で運ぶようになりました。昭和30年代には町内の27、28軒に卸していました。小網地区に3、4軒、高野川(こうのかわ)や上灘の山手にも卸していました。下灘にも7、8軒あって、長浜町との境にあった店にも卸していました。子どもはかまぼこが好きで、学校の弁当にかまぼこはよく使われていましたから、子どもが多かったころはよく売れました。
 昭和40年(1965年)ころから売れ行きが悪くなったので、かまぼこ製造をやめて八幡浜のかまぼこを仕入れるようになり、海産物の販売に主力を移しました。昭和40年代には、季節やその時々に出物があって、イリコのほかに、エビやタチウオ、サヨリ、煮干しやデビラなどを味付けした物を販売していました。松山にも付き合いがあって、海産物を取引する人や店がありました。取引が40年に及ぶような人もいて、今でも時期になれば注文が入ります。
 イリコは町内で消費されるだけでなく、現在では県外へも販路が広がっています。北海道の紋別(もんべつ)から沖縄本島まで全国から注文があり、町内よりも県外のほうが売り上げは大きいのです。地元の人が都会の知り合いに送ったことがきっかけになって口コミで広がり、定期的に注文が舞い込むのです。」