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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)町並みの成立と発展

 平城の町並みは、江戸時代には小規模なものだったらしい。明治44年(1911年)発行の『御荘村郷土誌』に、次のような記述がある。

   商業 往古ハ農専業者ノミニシテ商ヲ営ムモノナク、近世ニ至リテモ微々タリシガ如シ、現今一町ヲナセル平城町モ
  明治六七年頃ハ飲食物販売兼木賃宿ヲ営ムモノ僅ニ三戸ニ過キサリキ、明治七年大字平城山本亘氏カ観自在寺下ノ田地
  ヲ埋メ宅地トシ、家屋ノ建設セシヨリ移住シ商ヲ営ムモノ逐年相増シ、現今ニ盛運ヲ見ルニ至レリ

 これによると、明治時代初め、平城の町には飲食店を兼ねた木賃宿3軒があっただけだという。そして、明治7年(1874年)に山本家(平城村の最後の庄屋であった)が持ち地を整備して家屋を建設し、町並みを作り出したというのである。
 また、明治12年(1879年)作図とみられる平城の地籍図(松山地方法務局宇和島支局蔵)をみても、観自在寺の門前に連なる宅地と、平城の町並みの間には畑があり、寺の門前から順次発達していった町並みではない。門前町とは、神社や寺院の門前に参詣者を対象とするサービス機能が起こり、商工業者の店舗が参道をはさんで街村を形成したものとされる(⑥)が、平城の町はそのような定義に当てはまりにくい。
 明治17年(1884年)には、城辺にあった郵便取扱所が平城郵便電信局と改称されて平城の上町に移転してきた。明治30年(1897年)には南宇和郡役所が平城の永(なが)の岡(おか)に設置された。同年、南宇和郡を管轄する城辺分署が廃止され、御荘警察署となって平城の下町(しもまち)に新設された。明治40年(1907年)には、永の岡の金光(こんこう)寺に郡立水産農業学校(現愛媛県立南宇和高等学校)が開校した。こうして明治時代後半になると、平城の町近辺は、南宇和郡の政治や教育の中心地になっていった(⑦)。
 大正2年(1913年)、御荘警察署は永の岡に移転し、大正6年(1917年)には平城の町筋に電灯がついた。大正9年(1920年)には乗合自動車の会社が平城で開業し、一本松・宿毛(すくも)・岩松(いわまつ)・宇和島へ運行し始めた。このころまでに、西宇和郡から南宇和郡へ移住して来た人々が商工業の分野で活躍し、平城の町でも経済的にも社会的にも大きな勢力を持つようになったという。平城の町の中央、十字路の一角に残る2階建ての洋風建築(写真3-3-1参照)は、もと土予銀行御荘支店の建物であるが、これは西宇和郡出身の銀行家であった山泉作太郎の邸内に設けられたものである(⑦)。
 **さんは次のように話す。
 「かつて南宇和郡への卸売りは、宇和島からもありましたが、八幡浜からが一番多かったのです。そのため西宇和郡と関連ができて、八幡浜や伊方(いかた)など西宇和郡の人々が入り込んできました。港があった長崎(ながさき)にも西宇和郡出身者が多く、このような西宇和郡から来た商工業者を中心に、平城の町並みが作られていったようです。その子孫には、町長さんになった方もいます。」
 戦後、平城の町は順調に発展してきた(図表3-3-2参照)。官公署が続々と平城の町内や近辺に設置され、商店が数多く集まり、銀行なども整って、南宇和郡の中心地として発展してきた。昭和45年(1970年)発行の『御荘町史(⑦)』には、「かつて平城の町の中心として賑(にぎ)やかだった下町の様子は変わり、今では町の中心は西から東へ移り、大正時代にはまだ人家の稀(まれ)だった和口川裾附近(わぐちかわすそふきん)から東の永之岡(ながのおか)が、次第に中心街に発展しようとする気配が見えている。」と記されている。

写真3-3-1 山泉邸跡にある元銀行の洋風建築

写真3-3-1 山泉邸跡にある元銀行の洋風建築

南宇和郡愛南町。平成21年6月撮影