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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)「陸の孤島」と言われて

 ア 宇和島との交通
 
 **さん、**さん、**さんは宇和島との交通について次のように話す。
 「戦前、南郡の沿岸部は内航船で連絡しておりましたが、そのことを知る人が少なくなりました。戦争のころから昭和22年(1947年)くらいまでは木炭バスでした。城辺から宇和島へ行く便があり、出発の1時間から30分前に炭を入れてたいていました。途中の坂道で動かなくなれば、乗客が降りてバスを押しておりました。八百坂(はっぴゃくざか)(愛南町菊川(きくがわ))や柏坂(かしわざか)(愛南町柏(かしわ))、嵐坂(あらしざか)(宇和島市津島(つしま)町)や松尾峠(まつおとうげ)(宇和島市津島町)などで、そういうことがありました。
 戦前から昭和20年代初めにかけてはバス便が少なく、内海村からは船で御荘の長崎(ながさき)港に上陸していました。宇和島へ行くのも、長崎から船で行っておりました。長崎を夜遅く船で出て、宇和島には朝早く着きます。平城に集まってくる人々は、地元の御荘と内海、西海の人たちでした。バス賃が高く便数も少なかったので、船や徒歩で来ていました。
 バスで宇和島へ行くと4時間近くかかりました。バスが宇和島へ行くのに時間がかかったのは、ゆっくり運転しているのではなくて、道が狭くて離合ができないことが大きな理由でした。場所によってはかなり後ろまで後退しなくてはなりませんでした。
 私(**さん)は御荘町役場に勤めていましたが、宇和島出張となると日帰りできないので1泊ついていました。私が勤める前は、宇和島出張で2泊ついたと聞いています。まさに『陸の孤島』という言葉の通りでした。」
 また、**さんは次のように体験を語る。
 「初めてバイクに乗ったのは、昭和25年(1950年)です。そのバイクに乗って菊川のデコボコ道で運転していたら、車体が真っ二つになって、前輪と後輪が別々になったことがありました。よくケガをしなかったものです。その時は荷馬車に乗せてもらい、なんとか帰りました。今のように自動車が多くなかったので、運転経験の浅い者でもなんとかなりました。
 その後、私は宇和島でスバルの中古の自動車を買って、そのまま運転して御荘まで帰ったことがあります。自動車を買ったのはいいが、それまで運転したことはありませんでした。そのまま運動場で1時間稽古して、それから御荘に運転して帰りました。宇和島から御荘まで3時間かかりました。
 仕事で乗り回していましたが、クラクションのボタンが戻らなくて、ずーっと鳴らしたままで帰ったことがあります。通りがかりの車が止まって、恥ずかしい思いをしたことがあります。やがて買い換えた次の車は、乗り回すうちに運転席の下の床の鉄板が弱くて穴があき、雨の日に走ると下からしぶきがかかるのです。当時、車はよく故障したので、南郡から宇和島に行く途中4、5台が道端に止まっていたこともありました。」

 イ 郡内を縦横無尽
 
 平城の町で長年写真館(図表3-3-4のツ)を営んでいた**さんは話す。
 「写真館は、私の親父の代から開業しています。父が趣味で写真を撮っていたら、町の写真屋さんから『組合に入ってくれ。』と誘いがあって入り、商売を始めたと聞いています。当時は写真を撮るのに技術がいりましたが、上手に写していたようです。父は若いころ応用化学の勉強をしていて、薬品の扱いがうまかったようです。平城で写真館を開いたのは私が小学校に入学したころ(昭和11年ころ)で、カフェがあった所の家を買って、改装して写真館にしました。
 私が父の跡を継いだのも、自然にそういう流れになっていたように思います。正木(まさき)(旧一本松(いっぽんまつ)町)にも魚神山(ながみやま)(旧内海村)にも出かけて、南郡のほとんどの学校の記念写真や大きな行事を撮影していました。魚神山には船で行った記憶があります。
 親父は最初、『今日は家串(いえくし)(旧内海村)に行ってくるけん。』と言って、自転車に暗箱(あんばこ)(写真機の箱の部分)を積んで行っていました。途中からはバスに乗って撮影に行っていました。それが私の代になるとバイクになり、スクーターになって、そしてスバル360という中古の軽四自動車へと変わっていきました。昭和30年代前半には自動車を運転していました。」