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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)日常生活の中で

 ア 井戸水を飲んだころ

 『御荘町史(⑦)』によれば、昭和27年(1952年)に平城地区に水道ができた。**さんは次のように話す。
 「それまで水道はなく、つるべ井戸や手押しポンプで水を汲(く)んでいました。お大師様(観自在寺)の参道左手の所に、井戸がありました。平城小学校の近くで、『この井戸の水は良い水だ。』と評判で、小学生はよく飲みに行きました。みんな遊んで泥手なので、つるべの水を飲む時、つるべの縄で手をふきます。何人もが手をふくと、つるべの水の表面に縄の藁(わら)が浮かんでいました。それをフッと吹いてから水を飲んでいたのを思い出します。町の造り酒屋は、節崎(ふっさき)の水源から取水していました。
 昭和53年(1978年)に大久保山(おおくぼやま)ダムができるまで、僧都(そうず)川では土手近くの河原とか平野の田の中とか、あちこちから水が湧いていましたが、ダムができてピタッと止まりました。今は川の水が少ないです。」

 イ 夜警さん

 **さんと**さんが夜警について話す。
 「平城の町組の消防分団は、上町、本町、寺新町、馬場(ばば)の4つありました。12月になるとその団員が班になって1週間交代で町内を巡回していました。夜10時、12時、午前2時、4時の4回、あるいは3回、拍子木をたたいておよそ1時間、町内を夜回りしていました。夜警は12月31日まで行なっていました。泥棒よけにもなるし、拍子木を聞いて、各家では火の元を確認しました。当時は火事が多かったように思います。この夜回りは現在もやっています。」

 ウ 遊び

 **さんと**さんが若いころの遊びについて話す。
 「僧都川にはアユやウナギをとりに行きました。三本鍬(さんぼんぐわ)で川を掘って、下へ小さい石を置き、だんだん大きな石を上へ置いて石グロ(石の室(むろ))を作りました。大水が出たりした後、そこへ行って端から石をのけていき、水中メガネや箱メガネで水の中を見るのです。一つずつ石をのけていってウナギがいれば、それをジワーッと石で作った穴の方へ誘い込むのです。そして、上からウナギばさみで胴体をシュッとつかんで捕まえるのです。頭の方をつかまえようとすると、スッと逃げてしまいます。
 戦後のある時期、空気銃で遊ぶことが流行しました。このころは、鉄砲所持の許可証は要りませんでしたし、普通の道路で撃っていました。銃を曲げて、それを元に戻す時にできる圧力を利用して、スズメに向けて撃っておりました。3~5mm玉を使っていましたが、平城の町内の金物屋で買うことができました。」

 エ 城辺と御荘

 **さんと**さんは次のように話す。
 「平城には役所が多く、産業関係の団体は城辺に多かったように思います。御荘と城辺は、昔からライバル意識が強く、『御荘に負けたらいけん。』、『城辺に負けたらいけん。』と言っておりました。郡内の駅伝大会や小学校の陸上大会などでもそうでした。役場の職員同士はみんな仲がよかったのですが。
 子どもでもそうでした。城辺に一人で行くのは怖い。いじめにあうと思っていました。城辺の本屋に教科書を買いに行く時も、城辺の子どもが何人か組んで待ち伏せしているので、こちらも数人で行くようにしていました。
 お昼のサイレンさえ一緒には鳴らさない、時間を違えて鳴らしていると新聞に書かれたこともありました。城辺と御荘は同じくらいの規模の町でした。周辺の町村も南郡の発展のため何とかして一つになってほしいと県に陳情したことがあったくらいです。」