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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 くらしを支えた手工業品②

(3)番傘作り 
 
 竹と紙に恵まれていた伊予市中山町では、和傘作りが盛んに行われ全盛期には10軒余りの傘屋があった。中山川の河川敷や広場には何十本もの傘を干す光景が見られた。しかし、昭和30年(1955年)以降洋傘の普及により、次第に姿を消した。
 番傘作りについて、傘職人であったGさん(昭和8年生まれ)から話を聞いた。 

 ア 15歳で弟子奉公へ

 「私は、中学校を卒業して昭和23年(1948年)5月に今治の常盤町(ときわちょう)にあった日浅傘店に弟子入りしました。奉公先の傘屋は大きくて仕事場は20畳くらいありました。親方がいて、職人が3人、その下に多い時で弟子が3人いました。日浅傘店に弟子入りしたのは、父親が傘骨職人をしていて、日浅傘店と取引があり、親方をよく知っていたからです。父親は、自分が傘骨を作り、息子が傘職人になるとよいと思っていたのです。最初は、嫌だと言っていたのですが、夜学の学校(定時制高校)へも行かせてやるからと言われて奉公に出ることにしました。しかし、奉公に出ると朝早くから夜遅くまで仕事があり、学校へ行くことはできませんでした。仕事をしているときに、店の前を同年代の高校生が通ると、学校へ行くことができなかったのでうらやましく思ったものです。
 朝は、7時ころから庭掃除や作業場の掃除をします。職人さんが来ると職人さんのもとで下働きをしながら、傘作りを学んでいきます。夜は、9時ころまで仕事をしていたと思います。最初のうちは、小間使いでつなぎ仕事の材料を内職先に届けたり、できあがったものを持って帰ったり、油を塗った傘を近くの広場に干しに行ったりする仕事からはじめました。干すだけではなく、夕方には取り込まなくてはいけません。雨が降ったり風が吹いたりすると、すぐに取り込まなくてはいけないのでけっこう大変でした。それから、柄竹(えたけ)の節(ふし)取りの仕事や柄竹にロクロを取り付ける仕事、紙を張った傘に金輪(かなわ)を入れて形を整える仕事をしていました。その間に、紙を張る仕事を教えてもらい、2年目からは紙を張るようになりました。傘職人は紙を上手く張れるようになると一人前の職人として認められるので一生懸命に努力しました。
 奉公に出ている時分はいろいろと苦労しました。賃金はわずかなお金をもらうだけでしたが、そんなにお金を使うこともなかったので十分でした。休みは1、2週間に一度くらいで、中山へ帰るのはお盆とお正月に3日間ぐらい休みがあったので、その時だけでした。」

 イ 中山の町に傘屋が7軒

 「4年間、その店にいたのですが、最初の3年間は弟子奉公で、最後の1年はお礼奉公です。弟子奉公は、だいたい3年間と決まっていました。4年目からは職人になるのですが、1年間は奉公先でお礼奉公をする慣習だったので、職人として1年間働いて、昭和27年(1952年)5月に中山に帰って店を持って商売をするようになりました。店は、中山の泉町二丁目の梅坂(うめさか)天満宮(てんまんぐう)の下でした。隣が鍛冶屋でその隣にも傘屋がありました。仕事場は6畳ぐらいの板間で、父親とは仕事場は別でした。その当時は、中山の町では7軒の傘屋がありました。」

 ウ 番傘職人の技

 「傘作りには様々な工程があるので、10日から15日ぐらいはかかります。傘は一度に10本から20本をまとめて作っていました。」

 (ア)材料

 「主な材料は傘の柄(え)にする淡竹(はちく)と骨を作る真竹(またけ)、傘に張る和紙になります。傘の柄と骨をつなぐロクロや糸、油や塗料、カシューなどは松山の立花(たちばな)に傘専門の材料の卸屋があり、そこから買っていました。」
 
 (イ)柄竹を作る

 「淡竹を農家から買って帰り、炭火であぶって油を抜いて、竹をまっすぐにし、芯棒(しんぼう)の長さに切ります。竹の先を傘の上部、竹の根元を傘の下部に使います。すわって竹を足で回しながら、竹の節をカンナで削っていくと、カンナをあてている部分がだんだん丸くなってきます。そうやって柄竹を作ります(写真1-3-11参照)。弟子の時分は、柄竹を1日に100本も200本も作るので、脚の腹(裏)が痛くなり、大変きつい作業でした。蛇(じゃ)の目(め)傘の柄竹には模様をつけます。」

 (ウ)ロクロをつける

 「ロクロは番傘用・蛇の目傘用・子ども傘用があり、それぞれ大きさが異なっています。番傘用は大きいものを使います。竹の太さは一定でないので、ロクロの中を道具でえぐって穴をあけ、ロクロが柄竹に通るようにします。あらかじめ水につけておいてやわらかくしてから行います。ロクロは上下二つが一組で、一つは傘の頭につけ(上ロクロ)、もう一つ(下ロクロ)は傘を開閉する時に持つ部分につけます。柄竹に上ロクロをつけて、ハジキ(バネ)を取り付けてから下ロクロをつけます(写真1-3-11参照)。」

 (エ)骨作り

 「竹を割り削って、親骨(おやぼね)と子骨(こぼね)を作り、糸を通す穴をあけます。うちの場合は、父親が傘骨作りの職人であったので、傘骨は父親が作っていました。傘は骨作りの職人と傘を組み立て、紙を張る職人との分業になっているのです。
 傘の骨は、農家から買ってきた真竹を親骨や子骨の長さにあわせて切り、中山川の水につけておきます。竹をやわらかくするためです。子どものころに、川でドンコ釣りをしていて、針に竹がひっかかって困ったこともありました。大水が出た時は竹が流されるので、すぐに竹を上げに行っていました。竹の表面の皮と節を削り、目印として2本線を斜めに入れます。線を入れるのは、竹を細かく割って骨を作った後、傘骨を元の竹の形にもどすために入れるのです。和傘の骨には、よく見ると必ず線の跡が残っています(写真1-3-12参照)。子どものころに、手伝いでよく骨をそろえて竹の元の丸い形にしていました。その後、竹を4等分、8等分というように割っていき、骨を作っていきます。親骨の数は、50本くらいになります。次に、できあがった骨に穴をあけていきます。親骨は、両端と真ん中の節の部分に穴をあけ、子骨は、両端に穴をあけます。蛇の目傘は子骨に飾り糸を付けるので、そのための穴をあけていました。」

 (オ)つなぎ

 「柄竹につけたロクロに親骨と子骨を差し込んで糸で結ぶ作業です。つなぎは、自分のところでやったり、内職に出したりしていました。上ロクロに親骨を一本一本差し込んで、一つ一つ糸を通してつないでいきます。下ロクロに子骨を差し込んで、糸を通してつなぎます。そして、親骨の真ん中あたりの節の部分にある穴と子骨の端にある穴を一つずつ、糸でつなぎます(写真1-3-13参照)。」

 (カ)紙張り

 「傘に張る紙は、中山町平沢(ひらざわ)の河田さんから買っていました。傘の種類や大きさに合わせた型があるので、作る傘に合わせて軒紙(のきかみ)(リボンのように切ったもの)、平紙(ひらかみ)(扇形に切ったもの)など部分ごとに切っておき、それをのりで傘骨に張っていきます(写真1-3-14参照)。のりは、もち米をトロトロになるまでつきあげて、その中に柿渋(かきしぶ)を入れて作っていました。張るときは、カラツの大きな容器に入れて、刷毛(はけ)にのりをつけて、刷毛を竹の上でたたいてのりをのばしてから使います。
 最初に軒紙を、軒糸を包むように紙をやぶり半分に折って張っていきます。次に、親骨と子骨のつなぎの部分が傘の開閉で破れやすいので、補強のために紙を張ります。その後で平紙を親骨にのりをつけて張り、平紙の余った部分をカミソリで親骨にそって切っていきます。糸や張っている紙を切らないようにさっと切っていくのが職人です。傘作りで一番難しい工程になります。いつも紙を上手く張ってよい傘を作るように心がけていました。順番に張っていき、張り終わると天井に吊るして陰(かげ)干しをします。半日して乾くと、骨に当たる部分にツゲの木で作ったハサミのような道具で折目を入れ込みながら傘の形を作ります。最後に傘の上の丸い部分に紙を張り、張り終わるともう一度、室内で陰干しをします。」

 (キ)整形、油塗り

 「陰干しした傘に金輪(かなわ)を入れて、閉じた傘の形を整え、親骨や折りたたんだ端(谷)の部分を補正します。その後、紐で縛って閉じた傘の形を安定させます。そして、表面に紅ガラ(赤色顔料)を塗ってから油を塗ります。油は、ゴマの油を使っていました。油をひく前に、番傘には店の名前、子ども用の傘には子どもの名前を入れていました。蛇の目傘には、バラや菊の絵を入れることもありました。ロウを溶いて筆で書きます。そうすると傘に色を塗るときに絵を描いた部分が浮き上がってくるのです。もともと字を書くのは好きで、今治で職人としてお礼奉公をしていた時にお寺で書道を習ったこともありましたが、絵はお手本をもらって独学で勉強しました。」

 (ク)乾燥

 「油を塗った傘は、中山川の河川敷で3日から4日かけて乾燥させます。T字型のドリルのようなもので地面に穴をあけて、その穴に傘を挿(さ)して干していました。20本から30本ぐらいはいつも干していました。」

 (ケ)漆塗り

 「頭の部分に傘の保護と飾りを兼ねて四角の油紙を張り、カシューという合成の漆を塗り、傘の先に金具をつけると完成です。本物の漆は、今治で修業をしていた時に、親方が蛇の目傘の高級品に塗っていたことはありましたが、私は使っていません。蛇の目傘は、子骨に穴をあけて赤や黄や青や紫の糸で飾りを付けていました。うちでは母親がやっていましたが、きれいな飾りを作っていました。さらに柄の握り部分にも紐(ビニール籐(とう))を巻きつけていました。」

 エ 弟子の時代が最盛期

 「番傘の最盛期は、戦前と戦後間もないころです。私が弟子の時代が一番良かったころだと思います。モノがない時代だったので、何でも作れば売れる時代でした。傘と米を交換したりしていました。中山では、まだ米の飯でなかったころに、奉公先では毎日、米のご飯が出ていたので、それだけ儲(もう)かっていたのだと思います。弟子の時代に仕事で苦労はしましたが、食べ物で苦労することはありませんでした。
 私が店を持った時(昭和27年)には洋傘が普及し始めて、和傘はだんだん下火になってきていました。それでも最初のうちは商売ができていたのですが、3、4年してから注文も少なくなりました。母親が唐川(からかわ)の方へ、傘を持って行商へ出て注文を取ってくれたり、知り合いを通じて伊予市郡中の鰹節(かつおぶし)製造会社のヤマキやヤマニから一度に50本から100本のまとまった注文が来ることがあったり、栃谷(とちだに)や野中(のなか)でも買ってくれる人がいたので、何とか商売を続けることができていました。当時の傘の値段は、番傘で1本300円から500円、蛇の目傘で700円ぐらいだったと思います。雨が降って傘を差しているのを見ると、『この傘は、どこで作った傘かな。』『この傘はうちで作った傘だな。』というようにいつも気になっていました。
 昭和30年代に入ると、売る商品はあるが注文がほとんどなくなり、傘屋で生活をすることが、だんだんと厳しくなってきました。その当時は、傘職人のかたわらで青年団活動や公民館活動に参加をして、中山の町をあっちこっちと走り回っていました。昭和33年(1958年)までは続けたのですが、その年に郵便局の非常勤職員に採用され、昭和35年(1960年)からは正職員になったので、それをきっかけに傘職人はやめました。今考えると、そのころには傘職人で生活をしていくのは難しい状況だったので、ちょうどよかったのだと思います。」

写真1-3-11 柄竹とロクロを付けた柄竹

写真1-3-11 柄竹とロクロを付けた柄竹

伊予市中山町。平成23年7月撮影

写真1-3-12 和傘の骨に残る2本線の跡

写真1-3-12 和傘の骨に残る2本線の跡

伊予市中山町。平成23年7月撮影

写真1-3-13 つなぎ

写真1-3-13 つなぎ

伊予市中山町。平成23年7月撮影

写真1-3-14 和傘に張る紙

写真1-3-14 和傘に張る紙

伊予市中山町。平成23年7月撮影