データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 ものづくりと流通②

(3)シュロ皮

 シュロはヤシ科の常緑高木で、幹の高さは大きいもので10mほどにもなる。幹は繊維(せんい)状の毛に包まれており、この樹皮をシュロ皮と呼んでいる。シュロ皮は腐りにくく伸縮性に富んでいることから、この特性を生かして古くから縄や箒(ほうき)、タワシなど様々な生活用品として利用されてきた。伊予市中山町においても林業副産物としてシュロ皮の生産が盛んに行われていた。しかし、外国から安価に輸入できるパーム繊維や化学繊維の普及により、シュロ皮の需要は減少の一途をたどった。
 伊予市中山町豊岡で戦前から戦後にかけてシュロ縄工場やシュロ皮の問屋として商売を営んでいたLさん(昭和9年生まれ)とMさん(昭和11年生まれ)、シュロ縄工場やシュロ皮剥ぎに従事したKさん(昭和2年生まれ)に、生産と当時の流通について話を聞いた。

 ア 戦時統制経済がきっかけ

 Lさんが話す。
 「私の父がシュロ皮を集めてシュロ縄工場を始めたのは、昭和18年(1943年)ころからになります。それ以前は、うちではシュロ皮は一切扱っていませんでした。主に木炭や米穀、栗で商売をしていたのです。戦争で統制経済が始まって、木炭もお米も栗も自由に販売できなくなってしまい、何か商売できるものがないかということになって、シュロ皮を縄に加工する工場を作って商売するようになりました。
 中山では、うちと石丸さんがシュロ皮を扱っていました。他に仲介業者として井手上さんや森井さん、武田さんもシュロ皮の扱いがありました。
 昭和18年に、うちとシュロ皮を扱っていた井手上さん、森井さん、武田さんとが一緒にする形で、『中山シュロ皮工場組合』という会社組織にしてシュロ縄工場を始めました。工場は広さが50坪ほどで、多い時で10人ほどが働いていました。終戦前には女の人がほとんどでした。シュロ縄は細いものから3cmくらいの太いものまで、何種類も作っていました。細い縄は、魚を獲る漁師さんの網に使われていました。シュロ縄は、塩水で腐らない利点があります。和歌山の方へ送ったものは、海苔(のり)の養殖に使われていたそうです。戦後は、細い縄は庭師の人などが生垣に使ったりもしました。外国からパーム(アブラヤシの繊維)が入ってきて太刀打ちできないので、昭和26年(1951年)にシュロ縄工場はやめてしまいました。」

 イ シュロ縄工場

 (ア)繊維をそろえる

 「シュロ縄工場では、集めたシュロ皮から硬い『ケタ』と呼ばれる部分を包丁ではずします。次に、繊維の部分を機械で取っていました。機械は、昔の足踏み脱穀機のようなもので、歯の部分が釘になっていて、モーターでグルグル回ります。釘の歯で、シュロ皮を梳(す)くのです。シュロ皮を5、6枚重ねて持ち、機械にぐっと押し込んで機械で梳くと、きれいな長い繊維が取れ、短い繊維は向こう側へ飛んでいきます。こうして出来たきれいな繊維のことを『タイシ』と呼んでいました。短い繊維も集めて50cmほどの長さに揃(そろ)えてまとめます。シュロ皮からはずした硬いケタの部分も捨てません。ケタは、一晩炊いてやわらかくして、ほぐして繊維にします。荒っぽいちょっと太い繊維がとれ、この繊維でタワシを作っていました。シュロ皮の捨てる部分というのは、ほとんどありませんでした。」

 (イ)シュロ縄をなう

 「シュロ縄を作る機械は、ワラ縄を作る機械と形はほとんど同じで、二つある溝にタイシを適宜(てきぎ)入れて機械を動かすと縄ができます。短い繊維の方は繊維を揃えて、手で縄をないます。機械で細い縄、手でなう方は太い縄を作っていました。」

 ウ シュロ皮の収穫と流通
 
 (ア)シュロ皮を剥ぐ

 Kさんが話す。
 「私がシュロ皮剥(は)ぎをしたのは、終戦後になります。シュロ皮を剥ぐ時期は決まっていないので、年中採ってかまいません。シュロ皮を剥ぐときは小さめの刃のついた鎌を使っていました。シュロ皮剥ぎの鎌は、人によって角度が違っていて、自分の使い勝手のよい角度に鍛冶(かじ)屋さんに頼んで作ってもらっていました。私の鎌の柄についている刻み目は、シュロ皮の寸法の目安です。寸法によって、上・中・下に分けて、それぞれのサイズごとにまとめて出荷します。上・中・下で値段が違っていました。
 シュロ皮は、だいたい1年に12枚できます。3年くらいで剥ぐのが理想です。5年も10年も放っておいたシュロ皮は繊維が弱っているので価値が落ちました。シュロ皮を剥ぐ人は大勢いました。みんなそれぞれ自分の山に行ってシュロ皮を剥いでいました。惣川(そうがわ)(現西予市野村町)の方まで出掛けて1週間ほど泊り込んで、シュロ皮を剥いで集めて帰る出稼ぎ仕事をしていた人もいました。」

 (イ)シュロ皮の流通

 LさんとMさんが話す。
 「終戦後、モノのない時代、シュロ皮は、今では考えられないだろうけれど、お金になっていました。終戦後、松山の大街道(おおかいどう)の土地が1坪1,000円の時に、シュロ皮が1,000枚で1,000円していました。一番高い時は、1,000枚が4,000円していたこともあります。今は何でもナイロンやビニールになっているけれど、昔はシュロ皮が代わりをしていたのだから、相当重要だったのでしょう。山に住む人も商売人もシュロ皮で生活ができたと思います。
 シュロ皮は小田(おだ)や肱川(ひじかわ)、河辺(かわべ)、野村(のむら)で取れたものが多かったです。もちろん中山でもたくさん取れました。山で生活する人にとって、よい収入になっていました。だから一生懸命シュロ皮を剥ぎ、それが自分のところの山を守ることにもなっていたわけです。お金が入るので、みんなが競争みたいに剥いでいました。5年や10年もたたず、毎年か2年に1度剥いで、仲介業者さんから『Lさんできたぞ、取りに来いよ。』と連絡がきて、『よっしゃ。』と取りに行っていました。本当にいくらでも集まってきていたのです。西条(さいじょう)の黒瀬山(くろせやま)にも行ったことがあります。
 シュロ縄工場をやめた昭和27年(1952年)からは、集荷したシュロ皮からケタを包丁でのけ、シュロ皮とケタをそれぞれ倉庫で束ね、そのほとんどを和歌山へ送っていました。シュロ皮をだいたい1.5m角くらいの大きさで束にします。重さは1個40kgくらい、1束2,000枚くらいはあったと思います。昭和30年代ころの多い時で、2tトラックに大体20個くらい載せて、2日に1回、松山の日通(日本通運)へ持って行きました。松山の日通から和歌山までは貨物列車で送っていました。シュロ皮は荷物も大きいし汚いので、日通の作業員は喜びませんでした。」

 (ウ)中山は農産物の集積地

 「昔から大瀬などの山村からの山(やま)産物(林産物)は、内子(うちこ)へ出ずに馬を使って中山に来ていました。内子よりは中山へという感じだったのです。終戦後、自動車が入ってくると、トラックに木材を積んでいる上に、栗などを載せて送ってきていました。中山だけでなく近辺の産物は全部といっていいくらい中山に集まっていました。
 栗や木炭は、昭和24年(1949年)に統制経済が終わると、自由に商売ができるようになりました。栗は、近隣だけでなく、それこそ南予の方からも中山にどんどん集まってきていました。ほとんどの栗が中山栗として東京や大阪の市場へ送られていました。昭和25年(1950年)から、うちが扱っていた栗は、缶詰用として香川の讃岐(さぬき)缶詰という大きな缶詰工場へ運んでいました。当時、愛媛には栗を扱う缶詰工場はまだありませんでした。栗の選果(せんか)機械もなかったので、おばあさんを10人ぐらい集めて手で選果していました。多少小さくても丸い形のものなら構わないということだったので、機械より手で選果した方が効率も良かったのです。選果した栗はカゴに入れ、三豊運送という会社のトラックが香川から取りに来ていました。缶詰工場への出荷は、正直儲(もう)かりました。昭和35年(1960年)ころまで盛んにしていました。」


<参考文献>
・中山町『中山町誌』 1996
・内子町『内子町誌』 1995
・四国通商産業局編集『四国通商産業局管内鉱区一覧』四国商工協会 1958
・渡辺武男・沢村武雄・宮久三千年『日本地方鉱床誌 四国地方』朝倉書店 1973
・森岡数栄『風雪を越えて』 1986
・高木厚美「伊予索道について」(『伊予市の歴史文化26号』 1992)
・五藤孝人・川之内鉱山調査団「古代における伊豫国の鉱業の実態(2)」(愛媛地学調査研究会『愛媛の地学研究 第2巻第1号』 1998)
・四国通商産業局編集『四国鉱山誌』 1957
・米田稲夫「伊予市における陶磁器業~三島陶器の歴史にみる~安別当 雨翅 梅之木」
・愛媛県教育委員会『愛媛県の諸職』 1992
・愛媛県生涯学習センター『愛媛の技と匠』 1998
・田中信清『食品包装と竹の皮』甲南出版社 1973
・愛媛県生涯学習センター『えひめ、その食とくらし』 2004
・愛媛県歴史文化博物館『村上節太郎がとらえた昭和愛媛』 2004
・村上節太郎『伊豫の手漉和紙』 1986