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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 水論の記録

(1)深山大井手
 
 伊予市双海(ふたみ)町串(くし)地域一帯の地図を見ると、北に伊予灘が広がり、西や南の大洲市との境には壺神山(つぼがみやま)(971m)の険しい山系が広がっている。串地域の伊予灘側の斜面には、満野(みつの)、富貴(とみき)、松尾(まつお)などの小集落が点在する。地図には「串」の集落地名があるが、地元では「本村(ほんむら)」と呼ばれる小集落を指していて、明治時代前期まであった串村(満野、富貴、松尾などの小集落を含む)の呼び名である串との混乱が生じないよう使い分けられている。
 地図を見ると、伊予市、大洲市の市境と分水嶺が一致しておらず、肱川(ひじかわ)支流の矢落川(やおちがわ)水系の最上流部、壺神山の東側の谷は、伊予市双海町串地域の一部である。この分水嶺(ぶんすいれい)南側の伊予市分の地名を法師(ほうし)といい、古くは法師が谷(たに)と呼んでいた。
 法師地区を流れる谷川の水は、一部せき止められて人工の導水路に流され、分水嶺にある峠の堀切(ほりきり)を越えて北側の伊予灘側に流されて、串の松尾地区や本村地区の農業用水となっている。人工の導水路は「深山(みやま)大井手」と呼ばれ、この地域でなくてはならない貴重な水源となっている。

(2)江戸時代の水論

 大洲市立博物館には、伊予市双海町串地域の分水嶺を越える導水路をめぐる争いを記述した江戸時代の記録『水論一件控』が保存されている。表紙に「天明五乙巳年六月八日より 水論一件控 喜多山(きたやま)村」とあって、筆記したのは串村と争論をした相手方の喜多山村庄屋である。水論は天明5年(1785年)に発生した。この史料を活字にした白石尚寛氏「史料翻刻『水論一件控』」によると、水論は次のように展開している(①)。
 天明5年6月8日、喜多山村(現大洲市喜多山)の神社で雨乞(あまご)いが行われたとき、「渇水(かっすい)のときには、川上の串村法師が谷の水を落とす取り決めを古来より申し伝えている。」と言う者があり、村民の代表が串村(現伊予市双海町串)に分水の相談に行った。翌9日、代表2人が串村の組頭(くみがしら)良右衛門(りょうえもん)方へ行き、さらに串村庄屋(しょうや)宅へ行って、古来よりの取り決めを話して分水を重ねて嘆願(たんがん)したが、串村庄屋側は、古来よりの取り決めは承知しているが、分水はできないと答えた。同月13日に、喜多山村(現大洲市喜多山)のほか上新谷(かみにいや)村・下新谷(しもにいや)村(現大洲市新谷)の代表を加えて5人が串村へ行き、庄屋へ再度分水を嘆願(たんがん)した。しかし串村庄屋側が分水拒否を貫(つらぬ)いたため、17日未明に喜多山村の19名が串村の法師(ほうし)が谷(たに)へ行き、導水路を破壊して水を矢落川(やおちがわ)(喜多山村側)へ流すという実力行使を行った。このため、論田(ろんでん)村(現内子町論田)と河内(かわうち)村(現大洲市河内)の庄屋2名が仲裁(ちゅうさい)に入り、今後は渇水になれば村方庄屋から藩へ願い出て裁許(さいきょ)を受けるという覚え書が作られ、水論は一応解決した。
 この『水論一件控』の内容と庄屋系図の記載から、峠を越える水路「深山(みやま)大井手」の歴史をまとめた(図表2-1-4参照)。

図表2-1-4 分水嶺を越える導水路「深山大井手」の歴史

図表2-1-4 分水嶺を越える導水路「深山大井手」の歴史

大洲市立博物館蔵「天明五乙巳年六月八日より 水論一件控 喜多山村」、米子毅「串本村 久保家家系図について」(「長浜史談」30号、2006年)から作成。