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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 三机のくらし

(1)年中行事

 ア おこもり

 「天皇誕生日の4月29日に『おこもり』がありました。須賀(すが)公園に集まって、お宮にこもり、集まってから海岸に移って宴会をしました(写真1-3-2参照)。おこもりは、地域のみんなで、酒を酌(く)み交(か)わしたりしながらこの地域の今後を話し合う日でした。子どもも大人も全員です。おこもりの日は巻寿司(まきずし)をこしらえます。子どもたちが先に行き弁当を食べ、大人は後から行って、もう一回弁当を広げて宴会をしました。今は陸路で行きますが、当時は船で行っていました。そこで、酔った大人たちが、船の上で太鼓(たいこ)を叩(たた)いて歌を歌ったりして騒いでいました。覚えているのが岩宮のとしちゃんの歌とかです。『♪近頃としちゃんの顔色は、三月さくらの花の色~ ヨイショ~。』とか歌い、吐(は)きながら船の上で騒いでいました。
 戦争前に、『おこもりに行こう。』と船に乗って行きよる時に、真っ黒な潜水艦が急にニョキッと出てきて、みんなびっくりして、クモの子を散らすように逃げ帰ったそうです。その時は誰も『九軍神』(ハワイ真珠湾にて特殊潜航艇で突撃した海軍軍人)が訓練をしていたことなど知らず、翌年、新聞で『九軍神』のことを知ったそうです。体験した方から私(Bさん)が聞いたことです。」

 イ 三机の和霊様

 「松山海上保安部三机分室が出来たことによるエピソードがあります。三机の和霊(われい)様は、宇和島から分霊されたお宮で、毎年、お祭りのときは、三机湾が埋まるほど船がぐっすり(ぎっしり)停まって、とてもにぎやかだったのです。1隻の船にたくさん人を乗せて、佐田岬半島のあちこちから船で見物やお参りに来ていました。鳥津(とりつ)や二名津(ふたなづ)の人たちも、船に大漁旗を立てて来ていました。長浜などからも来ていたように思います。遠い地域の人々は発動機の船で来ていましたが、近くの人は手漕(てこ)ぎで来ていました。ある年、海上保安庁がそれらの船を取り締まり、翌年からは、今まで船で来ていた人々が来なくなり、三机の和霊様のお祭りは寂しくなりました。
 三机の和霊様は、本来は、三机の隣の松之浜(まつのはま)に分霊されていました。和霊様(山家(やんべ)清兵衛(せいべえ))の家来が、松之浜に流れ着いたのが、宇和島から分霊されたきっかけだと言い伝えられています。三机の組頭(くみがしら)の家の敷地に祭られていた時期があったり、松之浜に移動したり、いろいろありましたが、最終的に和霊様は三机八幡神社に移ることになりました。そうなってからも、当分の間は、元の組頭のお宅にお餅(もち)などを届けたりしていました。
 今は、和霊様のお祭りは須賀公園で行っています。宇和島の和霊祭の後に行うのが慣わしで、旧暦の6月24日にしていましたが、時期が早いということで、7月に開催していました。現在は、新たなイベントとして『瀬戸の花嫁まつり』が開催されているので、その行事と一緒に行っています。
 和霊様のお祭りのメインは相撲(すもう)大会です。これはずっと昔からそうで、相撲大会で盛り上がっていました。和霊様が松之浜から三机に移った当初は、松之浜と須賀公園の両方で相撲大会を行ったりしていた時期もありました。今も須賀公園には土俵があります。」

(2)三机のくらし

 ア 船で通う

 「足成(あしなる)の子どもは、昭和30年(1955年)当時、集団で船を漕(こ)いで学校に通っていました。夏になると中学生、小学生が全員船で学校に通っていました。潮の流れをちゃんと読んで通学していました。沖に出て潮の流れがある所まで行くと、後は自然に進むらしいです。ちょっと波の高い日などは、親が同乗して来ていました。足成からの通学船は、海岸の桟橋(さんばし)に付けていました(図表1-3-2の㋛参照)。学校からの帰りも、みんなが船に乗って帰っていました。結構距離がありますが、陸路よりは距離が短いので船を使っていたと思います。一丁櫓(いっちょうろ)で漕いでいました。
 私(Bさん)の母が須賀(八幡神社)に行くときは、町から陸路の道があったのですが、道幅が狭かったので、海岸線を通るときは、潮が引いたときに通っていました。昭和30年ごろでも、須賀へ行くときに船を使うことがありました。」

 イ 食生活

 「私(Aさん)の家では、普通に飯台(はんだい)で食べていました。椅子(いす)に座ってとかではなく、板の間に座って食べていました。寒いときは火鉢を焚(た)いて食事をしていました。家族が大勢いて、ご飯時(はんどき)には、子どもたちが食事を待っているので、手早く用意する必要がありました。
 郷土料理のサツマは、豆腐とアジなどを焼いて身を取って、擂(す)ってスープを取って、スープとネギを細かく刻んだものを、ご飯にかけた料理です。季節に関係なく食べましたが、夏によくしました。好みでミカンの皮を乾かして刻んでいれたり、洒落(しゃれ)た家などではカマボコを薄く切って入れたりして食べていました。私(Aさん)の家では、豆腐がメインでした。家々によっては多少材料が違ったみたいです。麦と米を半分ずつ混ぜた半麦(はんばく)の温かいご飯の上にかけて食べていました。
 私(Bさん)の家は、サツマに豆腐は入れず、その代わりコンニャクを入れたりしていました。すり鉢をひっくり返して味噌(みそ)を焼いて入れたりもしました。三机でもサツマが郷土料理だと思います。昭和30年(1955年)ころの食事はかなり良くなっていました。昔は、『イモにカンコロ、塩イワシ』と言って、半麦(はんばく)で食べていました。麦だけでは食べていませんでした。」

 ウ 雨乞い踊り

 「私(Bさん)は子どものころ、雨乞(あまご)い踊りを見たことがあります。頭に魚かなんかをつけて踊っていました。三机では、須賀で行っていました。
 踊りの歌も憶えています。『♪あーめをやんなはれ ぎおんどうー ぎおんどうーが焼けるぞう~。』『ぎおんどう』と聞こえたような気がします。『ぎおんどう』が何かは知らないのですが、『龍王堂(りゅうおうどう)』のことじゃないかと思うのです。『ぎおんどう』が焼けるから雨を降らせと、須賀公園の神社で踊りながら歌いました。笹(ささ)で桶(おけ)に入っていた水を空に向かって掛(か)けていた(振っていた)のを覚えています。歌詞の意味などは分からないですが、水に困ったときは雨乞い踊りをしていました。」

 エ 娯楽や遊び

 「戦前、三机にも桶(おけ)屋があって、『タリヤ』と呼んでいました。職人さんをタリヤのマサさんと呼んでいました。タリヤのマサさんの家は、岩宮旅館の前辺りで、その後、パチンコ屋になりました。私(Bさん)は小学校4年生か5年生のころ、パチンコに漬(つ)かりきりでした。当時は子どもがしても問題なく、だれでもできました。その後の本格的なパチンコも早くに入ってきたと思います。
 また、戦前には、ビリヤードが流行(はや)っていました。松本旅館の隣にビリヤード場がありました(図表1-3-2の㋔参照)。ビリヤード場では、おばさんが『何点。何点。』と言っていました。ビリヤード台は1台だけでした。私(Bさん)の父親は、下駄(げた)に羽織袴(はおりはかま)でビリヤードに行っていました。その後ろを私がよくついて行きました。行くと常連の人が大勢いました。三机のお羽織(はおり)衆(着飾った町の人々)は、みんな、男の人は下駄、女の人が白足袋(しろたび)で、なかなか風流だったと思います。
 子どものころの遊びは、男女関係なく缶けりをしていました。1軒の家に7人や8人はざらに子どもがいましたので、兄弟から友達みんなで遊んでいました。私(Aさん)は旧庄屋の門の下で缶けりをしていました。
 私(Bさん)が覚えているのは、男の子がよくしていたオツナンボです。先頭の子が松の木を背に次の子が先頭の子の股の間に頭を入れて、どんどん後ろに同じように繋(つな)がり、上に飛び乗った敵チームの子どもが『♪オツナンボ 三つ 一つナンボ 四つ 二つナンボ。』と掛け声をかけて、上のチームと下のチームとで数字当てをして、当たると交替しました。
 羽根突きの唄は、八つまでしか知らないのですが、『♪い(1)ってきな、に(2)てきな、酒(3)飲んで、酔(4)うてきな、い(5)つ来て、む(6)ても、な(7)なこの帯を、八(8)の字に締めて』と歌っていました。また、三机の鞠(まり)つきの唄(うた)は、いよいよ(とても)単純です。『♪ちんちゃん、ぽんちゃん、お茶がぷんぷん、沸いている、今日のおかずは、何ぞいな、にんじん、ごぼうに、焼き豆腐、焼いて、焦(こ)がして、たまりょうか、これでまずまず、一回つきました、ほい。』と歌いました。」

 オ 三机青年団

 「昭和37、38年(1962、1963年)、私(Bさん)が22、23歳のころに青年団の団長をしました。その当時は、青年団の活動が活発でした。『ほっとったら回ってこんなー。』と思って、団長に自分で立候補したのです。団長になって、『瀬戸の流れ』の刊行と結婚改善の2本立てで活動を行いました。結婚改善は全くうまくいきませんでしたが、『瀬戸の流れ』は10数号まで刊行されました。後世に残るように歴史の関係も連載しました。広告を掲載しているのは、発行するにあたってお金がなかったからです。
 そのころの愉快な思い出があります。バスガイドさんの節回しを私(Bさん)がまねて覚えて、青年団の出し物として、バスガイド風三机紹介文を発表したことがあります。三机青年団が公会堂(図表1-3-2の㋒参照)で演芸発表会をするので、その発表のためにバスガイドさんが台本を書いて、私を含め3人で発表することにしていたのです。だいたい一人10分程度で、3人の合計30分程度の予定で作成したのですが、前日になって私以外の二人が『ダメ。』と急きょ出演をキャンセルしたので、私一人で行った出し物が『バスガイド風の瀬戸町三机案内』です。30分はできませんでしたが、20分はしました。
 『♪皆様、本日は、ようこそ瀬戸町三机にお越しくださいまして、誠にありがとうございます。途中の風景は・・・。』『♪井上(いのうえ)善兵衛尉(ぜんべえのじょう)重房(しげふさ)が、長宗我部(ちょうそがべ)との戦いに、無念落城、たたかれ、涙に曇る古戦場。』中尾城のお殿様は井上善兵衛尉重房というのだそうです。天正10年代、織田信長の時代です。観光バスの歌案内の調子です。
 『♪冬の内海(ないかい)波あれて、人も稀(まれ)なるこの里に、夏は鰯(いわし)の漁場にて、網引く声も勇ましく、女子どもの手伝いが、浜に集まるその様が、秋の祭りの人出にも劣らぬほどと申します。プップー。』と言っていました。そのころは、必ず『プップー』が入りよりました。バスが、カーブ毎(ごと)にクラクションを鳴らしていた『プップー』です。その『プップー』も言っていました。『♪段々畑の麦の里、はるかに見えるあの里は、小振(こぶり)の里でございます。プップー。』当時作ったものには、少し事実と違う作品もありましたが、楽しい演芸でした。」 

 カ 陸と海の交通

 「バスの問屋を兵頭さんがして、バスの切符を切っていました。庄屋の家柄で三机銀行の頭取を務めた兵頭さん方です。兵頭さんの所までバスが入って、海側の道から来たバスを転回していました(図表1-3-2の㋖参照)。兵頭さんの所は敷地が広かったので問題なかったのです。
 昭和30年代は、八幡浜行きのバスも船も両方とも使っていました。八幡浜から三机まで、バスで2時間40分くらいでした。塩成(しおなし)から堀切(ほりきり)を越えて来ていました。はっきり憶えていませんが、バス便は、1日に2、3便だったと思います。乗客が一杯バスに乗っていて、みんな立っていました。道が悪いので、乗客はすぐ気分が悪くなりました。私(Bさん)の嫁も、八幡浜に子どもを連れて買い物に行った時、バスで座れなかったです。それはもう、船の方がよかったです。
 船で八幡浜に行く場合は、塩成から八幡丸(やわたまる)が出ていました。伊予灘側の方にも長浜方面行きの定期船がありました。いろは丸が最後の定期船でした。いろは丸の始発地は、三机からでなく二名津(ふたなづ)からで、三机に寄って長浜に行っていました。三机には2時間ぐらい停泊していました。三机で乗客が買い物をするために長く停泊していたようです。船の水を足したりもしていました。田部(たぶ)のほうには寄りませんでした。田部からは、別に水野丸(みずのまる)が来ていたと思います。半島から広島県へ行く定期船は、無かったですが、宮島(広島県の厳島神社)のお祭りの時などは、特船が出ていました。」
 三机は、佐田岬半島の伊予灘側の中心地であったが、昭和14年(1939年)八幡浜に鉄道が敷設(ふせつ)されると沿岸航路を失って中心性は失われた。主要な交通路からはずれ、静かなたたずまいを見せる三机の町並みには、あちこちに往時をしのばせる古いものが残されている。

写真1-3-2 三机の町並みと須賀公園

写真1-3-2 三机の町並みと須賀公園

伊方町三机。平成24年1月撮影