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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 大久の町並み

(1)役場付近

 「大久は西(にし)・脇(わき)・里(さと)・東(ひがし)と分かれていて、昭和30年ころは役場(昭和30年〔1955年〕までは四ツ浜村役場、昭和31年に瀬戸町になってからは瀬戸町役場四ツ浜支所)があった西と脇が中心で、店がたくさん並んでいました(図表1-4-1の㋐参照)。役場の東隣に駐在所があり、その隣が郵便局でした。役場の前が木造の消防倉庫で、くたびれた観音(かんのん)開きの戸があったので、印象に残っています。役場から大久小学校跡(昭和30年に校舎新築移転、跡地は牛市場として利用されていた。)に向う道がメインストリートで、地元の人は中道(なかみち)と言います(図表1-4-1の㋑参照)。私(Eさん)たちは、中道を通って小学校へ行っていました。役場の西隣が雑貨屋で駄菓子なども売っていました。その前が酒店で今もやっています。酒店の斜め前も雑貨屋をしていて食料品も売っていました。雑貨屋の向かいにも商店があり、主に文房具を置いていました。商店の西側もお店をしていて、『カシン屋』と呼ばれアメ玉を作っていました。大きなアメ玉で有名でした。どこの店も小学校の通学路沿(ぞ)いだったので文房具は置いてあったと思います。
 八幡神社の前から浜に出る道を『神様道(かみさまみち)』と呼んでいました(図表1-4-1の㋒参照)。戦前のことですが、私(Aさん)が小さいころは、その道の東側が低くなっていて粘土が露出(ろしゅつ)していました。その粘土を利用して瓦を作っていたのです。その当時は周辺に3軒の瓦屋がありました。
 郵便局の前の道を南に行くと浜に出ます。途中、東側にアイスキャンディー屋さんがあり、そこはお酒も飲めるようになっていました。居酒屋のような場所ではなく、キザケ(お酒をキープすること)しておいて、それを立ち飲みするような場所でした。浜に出る手前の西側にパン屋さんがありました。パン屋さんはもう1軒、近くにありました。浜に出て現在の波止場(はとば)のすぐ西側から、八幡丸(やわたまる)(八幡浜(やわたはま)から三崎間を運航する定期便)の通い船が出ていました(図表1-4-1の㋓参照)。まだ、波止場はなかったのです。港がないので船を着けられないため、通い船を出して親船(八幡丸)の間を行き来していました。通い船を持っていたのは問屋さんで、劇場と同じ人がやっていました。八幡丸が着く前になると、大きな木箱(切符箱)をさげて浜に出て切符を売っていました。」

(2)大久小学校跡

 「大久小学校は昭和30年(1955年)4月に東明(こちあけ)に校舎を新築移転しました(図表1-4-1の㋔参照)。私(Eさん)が小学校6年生の時に新しい校舎を建てていました。6年生の時は、元の小学校と新しい小学校を行き来して奉仕(ほうし)作業ばかりしていました。元の小学校を取り壊していたので、人数が多いとお寺で授業をしていました。新しい小学校へは卒業式だけ行きました。小学校跡地は牛市場になりました(図表1-4-1の㋕参照)。その後(昭和39年〔1964年〕から)保育園になって、保育園が移転したので現在は分譲(ぶんじょう)住宅地になっています。私(Fさん)は、この小学校へは通っていません。しかし、兄がこの小学校へ通っていたので一緒に遊びに行ってカシン屋のアメ玉を食べた記憶があります。
 小学校跡から西側にはお店はなかったのですが、タリヤ(桶(おけ)屋)さんがありました。桶屋とは言わないでタリヤと言っていました。主に桶の輪替(わが)えをしていました。戦後しばらくの間ですが、タリヤさんの南(海側)の方に水車がありました。クルマ屋と呼んでいました。隣に流れていた小川の水を利用して水車を廻(まわ)し、主にイモノコ(イモの粉)を挽(ひ)いていました。カンコロ(干しイモ)を持って行って挽いてもらってイモノコにするのです。挽いたイモノコでせんべいも焼いてくれていました。甘いものがない時代だったのでおいしかった記憶があります。」
 
(3)四ツ浜中学校周辺

 「四ツ浜中学校は昭和22年(1947年)に開校し、昭和24年(1949年)に新校舎が完成したのですが、運動場が校舎のある場所より一段低くなっていたので、当時の生徒が浜から砂を運んで運動場に入れて校舎と同じ高さにしたのです(図表1-4-1の㋖参照)。四ツ浜中学校の北側に旅館がありました。昭和31年(1956年)に廃業したのですが、旅館のおじいさんが博労(ばくろう)をしていたので、牛市の日には博労の人がたくさん泊まっていました。当時は、牛市で買った牛を船で運んでいたのですが、海がしけると船が出ないので旅館で牛を預かっていました。旅館の北側に畑があり、そこに牛駄屋(だや)が2軒ありました。
 四ツ浜中学校の東の方に繁久丸(しげひさまる)(三瓶(みかめ)から別府(べっぷ)間を運行する定期便)の問屋があり、その前の浜から通い船を出し、お客さんや荷物を親船(繁久丸)まで運んでいました(図表1-4-1の㋗参照)。中学校の西側には瀬戸町の母子健康センター(昭和35年〔1960年〕開設、昭和41年〔1966年〕三机へ移転)や大久診療所(昭和32年〔1957年〕開設)がありました。」

(4)国際電電跡地
 
 「昭和30年代には、大久の東の端に国際電電の中継所があり、職員もたくさんいました(図表1-4-1の㋘参照)。現在、NTTの電話交換所や大久診療所、教員住宅がある場所です。戦時中は軍の通信施設があったようです。現在、診療所がある辺りに事務所と社宅があり、遊戯(ゆうぎ)施設もありました。その当時、大久で最もハイカラな場所でした。私(Eさん)は、そこで初めてクリスマス・パーティーをしました。中学校を卒業していたので昭和30年代中ころのことです。
 大久でテレビが最初に入ったのもそこでした。私(Fさん)は小学生のころ、よくテレビを見に行っていました。プロレスで力道山が活躍していたころの話です。若い女性の職員もたくさんいて、ダンス・パーティーも開いていました。昭和30年代後半に中継所は閉鎖になり、中継所跡地は牛市場になりました。国際電電跡地にあった牛市場は、社宅や事務所の床を除けて、中の壁を打ち抜いて両サイドに牛をつなげるようにしていました。」

図表1-4-1 昭和30年ころの大久の町並み①1

図表1-4-1 昭和30年ころの大久の町並み①1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-4-1 昭和30年ころの大久の町並み①2

図表1-4-1 昭和30年ころの大久の町並み①2

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-4-1 昭和30年ころの大久の町並み②1

図表1-4-1 昭和30年ころの大久の町並み②1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-4-1 昭和30年ころの大久の町並み②2

図表1-4-1 昭和30年ころの大久の町並み②2

調査協力者からの聞き取りにより作成。