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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 三崎の街かど

 伊方町三崎地区では、平地に乏しく山の裾(すそ)が海に迫る急崖(きゅうがい)が多いため、海岸に沿う狭い平地や山腹にできた段丘(だんきゅう)の平地に人家が建てられている。その中で、比較的広い海岸平地に集落が形成された三崎では、昭和30年(1955年)ころ、集落の東北隅(すみ)に建つ傳宗寺(でんそうじ)(図表1-6-2の㋗参照)から海岸に向けて伸びる道路周辺を中心に様々な商店や事業所が軒(のき)を並べ、その軒先を地元の人々や近隣の集落から来た買い物客などが行き交っていた。

(1)三崎の中心地

 「旧庄屋の兵頭家(図表1-6-2の㋑参照)の隣にある造り酒屋から映画館(東劇(とうげき)〔図表1-6-2の㋒参照〕)のあった海岸近くまでの長方形型の区画一帯は、もともと兵頭家の土地です。映画館以外にも郵便局や医院、旅館、食堂、衣料店、雑貨店などがその区画に建ちました。この旧庄屋の跡地と、その山手に並ぶ役場や駐在所などのあった辺りが、三崎の中心地でした。
 造り酒屋は、元々はもう一つの映画館(三崎館〔図表1-6-2の㋐参照〕)が建っていた場所にあったのですが、そこから兵頭家の隣に移って来て、昭和40年代の終わりころまで『福月(ふくづき)』という銘柄の酒を造っていました。もとは網元でしたので、私(Cさん)が小学生高学年から中学生になる戦後しばらくの間、そこに魚をもらいに行っていました。
 役場の正面から造り酒屋や兵頭家の前の通路を100m少し下がれば海際の道路に出ます。車1台が通れるくらいの道路のすぐ横に広がる海岸は、当時まだ埋め立てられていなくて、私(Eさん)が小さいころには、家の前の砂浜の海岸まで裸で走りこんで友達と一緒に泳いでいました。」
  
(2)半島西端の海の玄関口

 昭和33年(1958年)の県道八幡浜(やわたはま)・三崎線の開通や、翌34年の八幡浜・三崎間の定期バスの運行などによって陸路が徐々に発達するまで、三崎では海上連絡が中心であり、人々の往来や物資の輸送には主に船が利用された。
 「三崎には廻船(かいせん)問屋が2軒ありました。三瓶(みかめ)・別府(べっぷ)間を就航して途中に八幡浜や三崎にも寄港する『繁久(しげひさ)丸』と、八幡浜から半島沿岸の所々に寄港しながら三崎に着く『八幡(やわた)丸』の取次ぎを、それぞれの問屋がしていました。繁久丸のほうは、私(Dさん)の嫁ぎ先が、旅館(松田旅館〔図表1-6-2の㋕参照〕)をはじめる前に問屋をしていました。主人が中学生から高校生のころは、船を着ける岸壁がまだなくて港の『すべり』(図表1-6-2の㋘参照)から艀(はしけ)が出され、本船と艀との間を人や荷物が移動していましたので、その手伝いが大変だったそうです。
 昭和30年(1955年)ころはまだ、この辺りに車がほとんど走っていませんでしたので、八幡浜方面から船で卸売(おろしうり)商や行商の人がよく来ていました。そのため、船便の都合で宿泊をする人も結構いて、小さい集落の割には、私(Eさん)のところ(戎(えびす)屋旅館〔図表1-6-2の㋔参照〕)も含めて多くの旅館が営業をしていました。私のところに宿泊していた人は、観光客はあまりいなくて、ほとんどが卸売商や行商の人でした。八幡丸などで商品を持って来て、三崎の商店街や他の集落の小売店に卸(おろ)したり、家々に商品を売ったりしていました。当時は、串(くし)や正野(しょうの)(いずれも三崎から西へ約8、9km離れたところに位置する集落)へは時間をかけながら歩いて荷物を運ぶしかなく、そのような人たちが、定期船の発着する三崎に宿を決めて商売をしていたのも、三崎に旅館が集中していた理由の一つだと思います。ですから、八幡浜・三崎間の定期バスの開通や自動車の増加によって陸上交通が発達するにしたがって、船で往来する卸売商や行商の姿が見えなくなり、三崎に来たとしても日帰りをする人が多くなって旅館の宿泊客は減りました。やがては、あれほど利用されていた沿岸航路の定期船もとうとうなくなってしまいました。昭和30年代の初めころが、港や旅館の賑(にぎ)わいの境目だったように思います。」

(3)人々のくらしを支える店々

 「三崎の中でも、中村(なかむら)地区や杉山(すぎやま)地区に商店や旅館、食堂、病院などが集中していました。役場から海に向かう通りに面していた商店は駄菓子屋さんで、和菓子の製造販売もしていました(写真1-6-2の㋓参照)。その隣の商店は青物屋さんで、その真向かいは豆腐(とうふ)屋さんでした。戎屋旅館の隣の医院は、当時、三崎にあった二つの病院のうちの一つでした。もう一つの医院(図表1-6-2の㋙参照)の先生のほうが若い方で、軍医であったらしく、学校の運動場でよく馬に乗って走っていました。
 農協の角を曲がったところにある商店(図表1-6-2の㋖参照)は、元は隣の旅館と同様に旅館でしたが、文房具や化粧品のほかにカメラや履物なども置いてあり、この辺りでは大きな商店でした。その商店の向いにはおいしいうどん店があって、別の真向かいには銭湯がありました。当時は風呂(ふろ)のない家も多かったので、夕方になると大勢の人が銭湯に行っていました。
 医院(図表1-6-2の㋙参照)の斜め向い側の商店はブリキ店で、自転車の販売はしていなかったのですが修理はしていましたので、私(Eさん)が小さいころにはよく自転車を直してもらっていました。そのブリキ店から少し南に行った向い側に、八幡丸の問屋をしていた廻漕(かいそう)店(図表1-6-2の㋛参照)がありました。タバコや塩も扱(あつか)っていましたし、廻漕店近くの海沿いの道路端に自動車の車庫をつくって運送業もしていました。廻漕店の隣の書店では、学校の教科書も取り扱っていました。
 学校といえば、小学校の前に文具店(図表1-6-2の㋝参照)がありました。その文具店は、三崎高校の初代校長だった末廣(重之)先生の家で、先生の親の時代からしていました。当時、学校の南側には田んぼ(図表1-6-2の㋠参照)があり、学校と田んぼの間の道が幹線道路で、山道を上がり峠を越えて二名津に行っていました。その田んぼも今はありませんが、子どものころは広いなあと思いました。田んぼの近くには2軒の製瓦店があり、田んぼの下から粘土をとって瓦を造っていました。一回掘ると底から水が上がり、深さが背の高さぐらいになるまで水が溜(た)まっていました。
 製瓦店の近くには牛乳店(図表1-6-2の㋜参照)があって、乳牛を3頭ぐらい飼っていました。その牛乳店の人が持っていた田んぼも近くにあって、鳥を追い払うための鳴子(なるこ)を引っ張って鳴らしていたのを覚えています。私(Bさん)は、その牛乳店の家の人に朝の4時ころに起こされることが何回もありました。その店の主人が牛乳を配達するのですが、都合で牛乳を搾(しぼ)れないときがあると、私の家の玄関口で私を呼んで、『(牛の乳を)搾ってもらえんかな。』と声をかけてくるのです。私は牛に人工授精を施(ほどこ)すことのできる免許状を持っていましたので、病気をした牛の様子を診(み)るのを頼まれることもありました。ときには危険な目に遭(あ)うこともあって、卵巣(らんそう)膿腫(のうしゅ)になった雌(めす)牛に後ろからのしかかられた時には、もうやられたと思いました。そのようなことが2回ありました。
 三崎は夏柑(なつかん)づくりが盛んですので、それに関連した工場や作業所もありました。田んぼの側(そば)にあった肥料工場(図表1-6-2の㋟参照)では夏柑栽培用の肥料を作っていました。農協で製品設計をしてから、肥料の原肥となる硫安(りゅうあん)(硫酸アンモニウム)や尿素(にょうそ)などを購入し、それらを骨粉(こっぷん)などと混ぜ合わせながら配合して、三崎の土に合う肥料を作っていました。その肥料工場の南側には夏柑のジュース工場もありました。また、三崎館のあった辺りに、クエン酸工場やダイダイ籠(かご)(夏柑を出荷するときに使う籠)を編む作業所もありました。
 昭和30年代後半から昭和40年代の初めくらいにかけて夏柑の景気がよかったころには、多くのダイダイ船(夏柑を運ぶ船)が三崎港に入って来て、食堂や飲み屋も流行(はや)っていました。雑貨店がたくさんありましたし、衣料品店や呉服店、履物店、金物店、薬局、写真館、化粧品店、美容院、理容店、クリーニング店などもあって、多くの人が買い物に来ていました。商店街でも毎年8月7日には全部の店が七夕(たなばた)様の飾り付けをするなどして、町中が賑わっていました。」