データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 三崎の夏柑②

(3)夏柑の収穫と出荷

 ア 夏柑の摘み取り

 「夏柑の収穫の時期は、1月から6月です。ミカンに比べると長期間になります。特に収穫の最盛期は4、5月です。この時期は家族総出で夏柑の収穫をしますが、大きな柑橘農家ではそれだけでは人が足りないので作業員を雇って収穫をしていました。絣(かすり)の着物にモンペをはいて前掛けをした姿で摘(つ)んでいました。夏柑を摘むのに二間(けん)はしご(約3.6mのはしご)をかけて摘んでいました。朝、ホボロ(4、5貫〔約15kg~18.75kg〕入る袋)を持ってはしごに上がると昼までは下りなくてもよいくらいでした。ホボロが一杯になると下に降ろす人がいて木にロープをかけて降ろしていました。それを俵(たわら)に入れ替え、主に女の人が、山から2俵(ひょう)(16貫から20貫〔約60kg~75kg〕ぐらい)ずつオイコで背負ってせん場(山の中腹にある広場で、索道(さくどう)の起点や中継所が設置されている場所)まで降ろすか索道を使って降ろしていました。俵は自分で編んでいました。昼は柑橘園で山仕事をして、帰ってから家族総出で俵を編んでいたのです。俵の大きさは10貫(約37.5kg)入るものや8貫(約30kg)のものなどそれぞれの家によって異なっていました。俵にはそれぞれの農家の屋号が入っています(図表2-2-2参照)。重さを計るときに風袋(ふうたい)の分は引くので大きさはばらばらでもよかったのです。」

 イ 山から海への索道 

 「せん場では、農協の役員が棹秤(さおばかり)で重さを計り、風袋の分は差し引いて帳面に記録していきます。役員は棹秤を持ってせん場からせん場へと移動していました。計った俵はサルギカイとよぶ索道を使って2俵ずつ降ろしていきます。大佐田の小梶谷鼻(こかじやはな)周辺のように海岸まで急傾斜地がせまって平地がない場合は、海に向かって索道を引いていました。索道のワイヤーを海上の大きな岩に杭(くい)を打ち込んで固定していたのです。せん場をつくるときに見通しがよくて、下に大きな岩のあるところを選んで索道をつけたのです。大きな岩がないところは船の錨(いかり)に固定していました。その岩や錨の前に中仕船(なかしぶね)という船を着け、索道から降りてくる夏柑を積み込み、選果場まで運ぶのです。この辺ではマジの風(南風)がくることがあります。上から見ていて、マジの風がくると『おーい、マジの風がきたぞぉー。』と下の船に知らせます。沖に波がたってくるのでわかるのですが、船がその波をまともに受けると船首が海に沈んでしまうので、マジの風がくると積み込みを途中でやめていました。せん場から荷を降ろすときは、索道の下には絶対に近寄るなと言っていました。万が一、俵が落ちたら大きな事故になるからです。索道の長さは150mから200mぐらいありました。海に向かって設置されている索道は、大佐田から名取にかけてありました。
 索道からモノラック(モノレール)になったのは、昭和40年代の初めに三崎町が第二次農業構造改革の指定を受けたことがきっかけです。その補助金を受けて設置するようにしたのです。三崎町でモノラックが最初に設置された地域は大佐田でした。設置費用の半分は自己負担だったのですが、まだ夏柑の値段が良い時代だったので次々と設置されていきました。」

 ウ ダイダイ籠での出荷 

 「選果場は港の近くにありました。昭和24、25年ころ三崎の中央選果場ができて、昭和45年(1970年)に第二選果場ができました。今は、二名津の選果場に統合されています。船で運ばずにリヤカーや大八車に積んで直接持ってくる人もいました。
 選果は、品質によって秀・優・可の3等級に分けます。選果の終わったものは、ダイダイ籠(10貫入りの竹籠)に入れて出荷をします。籠に入れるときは、コモをいれて夏柑が竹にあたってキズがつかないようにしていました。また、外から見ればすぐに等級がわかるように籠に縄を巻きます。赤い縄を4本巻いているものが秀品、3本巻いてあるものが優品、白い縄を2本巻いているものが可品です。縄染めも農協の倉庫で赤の染料を付けて染めていました。
 選果で出た不良柑(ふりょうかん)や、落柑(おちかん)といって春先の季節風を受けて木から落ちた実は加工してジュースにしていました。昭和28年(1953年)に三崎農協直営の柑橘加工工場ができたのですが、当初は不良柑や落柑の原果汁をしぼって、果汁を1斗ビンに入れて山口の萩(はぎ)にあった山口県の経団連が運営していた加工工場へ送って、そこでジュースやクエン酸に加工していました。それより前はバラで(そのまま)持って行っていました。三崎でジュースを作るようになるのは、昭和40年(1965年)ころだと思います。」

 エ ダイダイ船で尾道へ

 「道路が整備されていない時代だったので、夏柑は全て船で運んでいました。ダイダイ籠に入れた夏柑を、ダイダイ船とよぶ機帆船(きはんせん)に積み込みます。選果場の前の岸壁と船の間に、スラシという、杉の木を半分に割り2本つないだ板をかけ、ダイダイ籠を滑らせて積んでいました。ダイダイ船は5,000貫(約18.75t)ぐらいの荷物が積めました。一つの籠が10貫なので500個積むことになります。三崎では1号蛭子(えびす)丸(大久)、11号エビス丸(神崎)、東邦丸(三瓶)、権現丸(松)、金比羅丸(後に神幸丸、三崎)、徳丸(三崎)、天神丸(井の浦)、明栄丸(高浦)、茂吉丸(串)、福丸(大長)の10艘が運航しており、連日夏柑を尾道(おのみち)まで運んでいました。ダイダイ船は夕方4時から5時に三崎を出て、翌朝に尾道に着きます。三崎から尾道まで約12時間かかっていました。私もダイダイ船に乗って尾道までいったことがあります。尾道で荷物を揚(あ)げて鉄道の貨車に積み替えて東京や大阪の市場へ運びます。ダイダイ船が夏柑を運ぶのは出荷時期の1月から6月ですが、それ以外の時期も肥料や飼料、苗木などを八幡浜から運んでいました。」

(4)夏柑から甘夏柑へ          

 「夏柑から甘夏柑に変わるのは昭和45年(1970年)から50年(1975年)ころだったと思います。人々の嗜好(しこう)が変わって、酸味の多い夏柑を好まなくなったのです。そのため、価格が低迷し甘夏柑へ切り換わっていきました。その後はサンフルーツ(新甘夏柑)や清見タンゴールなど市場の動向にあった作物へと切り換わっています(図表2-2-4参照)。しかし、その一方で後継者不足や高齢化で耕作を放棄した柑橘園もあります。私の家も1町4、5反(約1.4~1.5ha)あったのですが14、15年前から山を放ってあるのです。」


<参考引用文献>
①三崎町『三崎町勢要覧2005』 2005
②「八幡濱新聞」 2011年8月6日付
③田村善次郎「風哭き海吠える佐田岬半島」(1986年4月「あるく みる きく」230号) 森本孝編『宮本常一とあるいた昭和の日本6 中国四国3』農山漁村文化協会 2011 所収
④田村善次郎、前掲書。
⑤海上保安庁燈台部『日本燈台史』燈光会  1969

<その他の参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 社会経済1 農林水産』 1986
・愛媛県『愛媛県史 社会経済2 農林水産』 1985
・三崎町『三崎町誌』 1985
・瀬戸町『瀬戸町誌』 1986
・藤岡謙二郎編『岬半島の人文地理』 1966 大明堂
・愛媛県生涯学習センター『宇和海と生活文化』 1993
・伊方町「ふれあいいかたNo.41」 2008
・三崎町「広報みさきNo.129」 1988

図表2-2-2 大佐田地区の農家の屋号例

図表2-2-2 大佐田地区の農家の屋号例

Eさん提供資料から作成。

図表2-2-4 伊方町三崎地区の柑橘の生産推移

図表2-2-4 伊方町三崎地区の柑橘の生産推移

『三崎町誌』から作成。