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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 船問屋の移り変わり

 かつて佐田岬半島の南岸沿いに集落を結んでいた国道197号は、半島の尾根部分に順次整備され「頂上線」と呼ばれ、平成10年(1998年)に三崎(みさき)港付近まで2車線の道路が完成した。現在は「メロディーライン」の通称で親しまれている。
 陸路がこのように整備されるまでは、半島では海上交通が移動や交易の手段であった。江戸時代の和船の時代から、沿岸航路が半島の南岸・北岸沿いに発達したが、昭和14年(1939年)に国鉄八幡浜(やわたはま)駅が開業すると、北岸の航路(二名津(ふたなづ)や三机(みつくえ)と長浜(ながはま)~郡中(ぐんちゅう)~三津浜(みつはま)などを結ぶ)は次第に衰え、南岸を三崎から八幡浜まで結ぶ航路が海上交通の大動脈になっていった。三崎~八幡浜を結ぶ航路には八幡(やわた)丸、別府(べっぷ)~八幡浜~三瓶(みかめ)を結ぶ航路には繁久(しげひさ)丸が就航していた。九町(くちょう)で八幡丸の船問屋をしていたAさん(昭和6年生まれ)、Bさん(昭和9年生まれ)に話を聞いた。

(1)船問屋を始める

 「私たちは、艀(はしけ)の渡し船のことを『通(かよ)い船(せん)』と呼んで親しんでいました。九町には、八幡丸が来ていました。岸壁がないと八幡丸に乗れないので、それで通い船を出していました。
 私たちは、昭和31年(1956年)に結婚し、それから昭和60年代までの約33年の間、問屋として仕事をしました。最後のころはお客さんが少なくて嫌になりました。そのころは、船も高速船に替わり、昔よりも乗船時間も短縮していて便利になっていましたが、山の上にメロディーラインができたので、自然と車を購入する人が増えて、仕事を続けるのは難しくなりました。自分の思い通りに行動できる車の方が便利ですから。高速船は、八幡浜まで20分程度で行っていましたが、道路が整備されて車でも同じぐらいの時間で行けるようになってからはダメになりました。
 九町の問屋は、明治の終わりか大正の初めごろに濱岡幸松さんが始めました。三崎・名取(なとり)・川之浜(かわのはま)・大久(おおく)・川之石(かわのいし)等、各地区の問屋さんが仲間を作って、その仲間の株をそれぞれの問屋が所有して、八幡浜を起点として運行していました。濱岡幸松さんの息子の幸一さんも父の仕事を引き継いで、問屋の仕事や機帆船(きはんせん)の賃漕(ちんこ)ぎで生活していました。その後、幸一さんは一時、桝田さんという人に問屋の仕事を5年ぐらい任せていましたが、ずっと任せるわけにもいかないので、身内であった私(Bさん)に、『二人(AさんとBさん)が一緒になるなら、譲るから継いでくれんか。』と言われ、それで夫婦で問屋の仕事を始めました。」

(2)問屋の仕事

 「昭和40年代の半ばまでは、八幡丸がオカ(陸地)に直接着けないので、沖に停泊している八幡丸に通い船で人を運ぶのが仕事でした。悪天候の時などは事故が起こる可能性が高く、危ないので、役場に頼みに行って船が接岸できるようにしてもらったのですが、完成しても潮の引いた時などは接岸できず、浜辺から通い船で人を運んでいました。その工事から1、2年して台風が来た際に、工事した接岸場所がもげて(壊れて)しまいました。その後、沖にあった大波止(おおはと)を頑丈(がんじょう)に工事してからは、台風などの時化(しけ)が来ても大丈夫になりました。九町の住人には、それを八幡浜で自慢する人もいたぐらいで、『うちの大波止は時化がきてももげまいが、よかろうが。』と自慢していました。今は、さらに修繕や改良を重ね、より頑丈な造りになっています。
 問屋には休みはなかったです。新聞も船で運んで来ていましたから、問屋の仕事とともに新聞配達をしていました。元日も新聞配達があるので、1年中休みはありませんでした。八幡丸の営業自体は、時化のときなどはお休みですが、通い船が壊れないように避難させる仕事があるので、実質休みはありませんでした。通い船は、自費で宇和島の造船所で造ってもらいましたので、海が荒れるときには、通い船が波止(はと)にあたって割れないように、安全な場所に避難させなければなりませんでした。
 お客さんは問屋の窓口に来て、1人いくらで切符を買って乗船していました。店の売り上げは10日ごとに集計して、店の取り分を引いて残りを八幡浜運輸へ送っていました。切符が、三つに分かれるようになっていて、問屋の控えと乗船券と上陸券に分かれて、その枚数で売り上げを確認していました。一人分の料金につき1割程度が問屋の取り分でした。問屋は、通い船で八幡丸に人を乗せたり降ろしたりが仕事なので、取り分は少なかったです。特に八幡浜からの帰りの上(あが)りの取り分は少なかったです。『取り分を上げてくれ。』とお願いしても上げてくれませんでした。昭和40年代は、1日に100人ぐらい利用していました。
 夫婦で仕事は違っていて、艪(ろ)は主人(Aさん)が漕(こ)いで、切符は私(Bさん)が売っていました。問屋の待合所では、椅子(いす)を並べて座れるようにして、冬は炭でストーブをつけて、お客さんに待ってもらいました。切符は、小窓から買えるようにしていました。船が見えたら、問屋の切符売り場兼待合所を閉めて、鞄(かばん)を持って船着場に行きます。遅れてくる人のために船着場でも切符を売れるように鞄を持って行きました。艀(はしけ)の鑑札(かんさつ)を入れ、切符を売るための鞄で、伊予鉄電車の車掌さんが持っているような鞄です。その鞄を『譲ってくれ。』と言われたことがありますが、『これはおばちゃんの一代記やがな。』と譲りませんでした。
 問屋の仕事で嫌なのは、海が時化(しけ)たときでした。八幡丸が港に来れば、時化ていても通い船にお客さんを積んで八幡丸にお客さんを乗せないといけないので大変でした。
 昭和30年代、40年代は、お客さんが多くいたので景気が良かったです。荷物の配達もあり、配達代も入ってきたので経営も安定していました。昭和50年代、60年代は自動車に取られて、どんどん下火になりました。」

(3)八幡丸の運航

 「八幡丸の船主は八幡浜運輸で、皆川さんが社長でした。身内とかではなく、株を持っていた仕事上の付き合いでした。 
 運航は、1日7便だったと思います。八幡浜へ出発する便が朝6時半、7時半などで、帰ってくる便は、10時半、13時、17時ぐらいだったと思います。こっちから出航するのが4便で、帰ってくるのが3便でした。八幡丸は3隻で運航していました。八幡浜から三崎までは、3時間ぐらいかかっていました。
 朝は、3隻の八幡丸が八幡浜、塩成(しおなし)、三崎とそれぞれ違う港から出発していました。塩成から出発する船は、八幡浜から空船(からぶね)で塩成に向かいます。そのため、八幡浜で飲み会があった時などは、翌朝、塩成から出発する予定の八幡丸に、夜中に八幡浜港に繋(つな)いである時に乗り込んで、船の中で寝て、朝一番で九町に帰ったりしていました。そんなことができた時代でした。時刻表は、朝の便の出発時間が変ったことがあったかもしれませんが、ほとんど変らなかったです。
 運賃は、いつの時期かは覚えていませんが、九町から川之石(現八幡浜市)が35円で、八幡浜が50円の時があったことを覚えています。九町と加周(かしゅう)では10円違いで、塩成では20円違っていました。港は、八幡浜・川之石・九町・加周・塩成・大久(おおく)・井野浦(いのうら)・三崎があって、距離によって料金が違っていました。高速船になってからは料金が少し高くなりました。
 船が欠航するときは、電話でこちらから八幡浜に確認したりしました。時化の日が休みで、船が欠航するときは、だいたい皆(みな)よくわかっていました。雨がザアザア降り出したり、海が時化ているときは、問合せがあれば、『今日はないよ。』と言っていました。特段、待合所に張り紙をしたりしたことはなかったです。霧で欠航することは、ほとんどなかったです。山の上辺には霧がかかることがあっても、町のほうは大丈夫でした。
 八幡丸の航路と、別府~三瓶航路の繁久丸とは、三崎から八幡浜までの航路が重なります。繁久丸との競争は、私たちが問屋の時はありませんでした。先代の幸松さんの時は、人から聞いた話ですが、競争していたと聞いています。船に乗ろうと二見(ふたみ)の方から九町へ歩いて来る人たちのところまで行って、切符を販売していたように聞いています。
 当時は、同じような時間に九町から八幡浜に向かって船が出ていたので、競争していたのです。まだ薄暗がりの6時か6時半、九州まで行って帰った便の繁久丸と、塩成から八幡浜へ向かう八幡丸が同じくらいの出発時間になっていました。その早朝の船に、どっちの船に乗せるかで競っていたようです。ただ、繁久丸は、川之石に着けてから八幡浜に行きますが、八幡丸は八幡浜直行であったので、急ぐ人や八幡浜から汽車に乗る人は八幡丸に乗っていました。」

(4)八幡丸に乗る人々

 「戦後すぐ航行していた第6八幡丸は、型は小さいですが足のよい、いい船でした。定員は60人ぐらいだったと思いますが、実際にはもっと大勢が乗っていました。
 1年を通して忙しい時期は、夏のお盆の時期や、モンビ(ハレの日)の時期の10月、正月が忙しかったです。また、ここらの地域は、6月に『野休(のやす)み(農休(のうやす)みともいう)』と言って、川之石の金比羅(こんぴら)さんにお参りに行く風習があり、その時も忙しい時期でした。田植えが終わったころに役場が設定した地域のお休みです。川之石の金比羅さんに行くことを、『雨井(あまい)(雨井は川之石の小地名)に行く。』と言っていました。長浜(ながはま)の白滝(しらたき)(滝のある景勝地、現大洲市)に行く人もいました。朝一番の船に乗って八幡浜に行き、汽車に乗り換えて行っていました。岬の先に遊びに行く人はいませんでした。だいたい、八幡浜か川之石に行きました。
 昭和30年代、ある冬の日のことです。ちょうど近所の子らが就職して初めて九町に帰ってくる日に大雪が降りました。雪が降ると前が見えないので、通常そんな日は、船は出ないのですが、その日は時間に遅れながらも運航していました。見ると近所の子らが、寒いのに甲板(かんぱん)に乗って帰ってきました。私は、『おっとろしや(大変だね)。この寒いのに中に入れんかったんかい。』と聞くと、『おばちゃん、人が一杯で中に入れんかったんよ。やっとこの船に乗れて帰れたんよ。』と言っていました。
 また、お医者(歯科医・眼科医)に行く人が利用していました。他には注文取りの営業や、行商の人がよく利用していました。朝一番の塩成から来る便で九町を訪れて、注文をとったり届けたりして、最終便や、間に合えば昼の便で帰っていました。行商の人は、ショウケやトジョウケ(いずれも竹製のかご)を担(かつ)いで来ていました。素麺(そうめん)と麦を物々交換する人もよく利用していました。会社勤めなどは寮生活だったので、通勤客はいなかったです。通学は、川之石高等学校の生徒がいたぐらいでした。八幡浜市内の高等学校へ通う生徒は、下宿していました。
 昭和30年ころ、塩成や三崎の方など半島の西の方の人たちは、井田医院によく来ていました。医院の診察に来ている人は、病人のはずなのですが、船を下りると、医院の診察の受付番号を争って、医院に向かって走って行っていました。診察の順番が遅くなると、帰りの船の時間が遅くなるからです。八幡浜の病院まで行くと遠くなるのと、井田先生の腕がいいと評判だったので、よく来ていたのです。当然、地元の人も腕がいいので訪れましたが、『井田さんの所はしかられる。』との評判でした。先生は軍医であったように聞いたことがあります。ある時、患者さんが『先生いい免許もってますな。』と話しているのを聞いたこともあります。私が新聞の集金に行った時に、普段は奥さんにしか用事がないので、あまりお会いしませんが、パタパタパタと音がするのでのぞくと、先生は自宅の井戸横で、ねじり鉢巻に褌(ふんどし)姿(すがた)で運動されていました。几帳面(きちょうめん)な先生で、ご自身の健康にも注意されていました。」

(5)船の乗り降り

 「小波止(こはと)は、岸にある波止場です。大波止(おおはと)は、沖にある一文字の堤防です。今は、大波止を取り込んだ形で整備されています(写真3-1-4参照)。八幡丸は、大波止よりも沖に停泊していました。小波止から海に向かって左手に通い船用の階段があり、潮が引いても下に降りられるようになっていました。  
 通い船は、碇(いかり)を打って繋(つな)いでいました。通い船は艪(ろ)で漕(こ)ぎますが、40人乗っても、余裕がありました。通い船には、皆(みな)立って乗っていました。どっしりした重たい船なので、揺れることがないよい船でした。40人以上乗ることもあり、大勢を乗せて艪を漕ぐのは重くて大変でしたが、当時は若かったので大丈夫でした。乗せすぎてバランスを崩したり、ひっくり返ったりすることはなかったです。一度、船に波が入ってお客さんが船の端によったために船が傾いて、『これはいけん。かえらせんぞか。(これではいけない。ひっくりかえらないだろうか。)』と思ったことが1回ありました。
 通い船は、お客さんの乗り降りが難しかったです。よそ行きの服を着ている人は、特に難しかったみたいです。男の人であれば、岩の端に足をかけて、岸壁を捕まえて上がれるのですが、女の人は、スカートをはいていて、足を振り上げて降りる訳にはいかず大変なので、小波止に通い船を着けて上がるところを設けていました。
 船に乗ろうとして満員で乗れないということは、九町から八幡浜に行く便ではありませんでしたが、八幡浜から帰ってくる便では、九町より半島の西の人を優先的に乗せて、九町の人には後で臨時便を出して帰ってくることが、たまにありました。
 汽笛は、加周から出航してしばらくしてから、プープーと鳴らし、それから乗り場辺りにお客さんの出が遅かったら、またプープーと鳴らしていました。『もうすぐ到着するから早く出てこいよ。』という合図の汽笛でした。それを聞いて波止に走ってくる人がいました。遅れて出てくる人はだいたい分かっていました。
 5分くらい船を待たせることは、しょっちゅうありました。よく遅れる高校生に『もうちいと(もう少し)5分、はよ起きよ。5分はよ起きたら待たせんでかまん。(全力で走ってくるのは)めんどさないか。毎朝毎朝。』と言っていました。何とか高校生を八幡丸に乗せ、八幡丸と通い船が離れ、通い船がオカ(陸)に向かって進みだしたと思ったら、その高校生は八幡丸の甲板(かんぱん)に出て、早くも親が作ってくれた弁当を広げて食べていました。通学していた高校生たちは、だいたい女の子たちが船の中に入り、男の子たちは甲板にいました。たまにその高校生が早く来た時に聞いてみたのですが、『おーい、はや弁当食べたら、昼どがいするが(昼食はどうするのか)。』と嫌味(いやみ)を言ったことがあります。」

(6)八幡丸の船荷

 「九町の商店街の店に宛(あ)てた荷物がいろいろありました。昭和40年(1965年)に車の免許を取得するまでは、リヤカーで配っていました。配達するのも仕事としてやっていました。地元の商店などへの生活雑貨など、八幡浜から仕入れた商品を配達していました。
 祝言(しゅうげん)の家具(婚礼家具)などを運ぶ事もありました。九町には家具屋もあったので、地元の人が別の所から買ってくることはなかったのですが、嫁(とつ)いでくる人の荷物で、祝言の家具が来ることがありました。『祝言のタンスでえ。』と八幡丸の船員が通い船に乗せてくれるのですが、そこからが大変でした。人を運ぶどころではなかったです。夫婦二人が通い船からオカ(陸)に上げて、それをリヤカーに乗せて運んだ記憶があります。傷つけないように古い毛布を持ってきたりして、気遣って運びました。
 自転車は、しょっちゅう運びました。他には、ピアノを運んだことがあります。ある裕福な家に女の子がいたので、それでピアノが来たことがあります。縦積みで、『横積み禁止』と書いてありました。傷付けたり、落としたりてピアノの音(おん)が狂ったりしないように気を遣いました。
 子牛を運んだこともあります。半島の西の方で牛市があり、そこで子牛を購入して八幡丸に乗せてきたことがあります。子牛が通い船に乗るのを怖(こわ)がって降りんのです。子牛を八幡丸の乗せる時は、博労(ばくろう)(牛馬の売買・仲介をする人)さんがいるので、引っ張ったら八幡丸には乗るのでしょうが、降りるときは博労さんがいないので、通い船に降りるのを怖がって、降ろすのに一苦労でした。さらに子牛が埠頭(ふとう)を上がることができないので、『これ困ったのお。おっちゃん、これ西の浜へ行くしかないか。』と話し、埠頭の西にある砂浜に通い船をつけて子牛を降ろした思い出があります。当時、子牛を連れて帰るのに、船を雇って子牛を運ぶこともできましたが、費用がかかるので八幡丸に乗せたのだと思います。
 海岸沿いの家に運ぶ時や、二見に荷物をリヤカーで持っていくのが面倒な時は、通い船で直接持っていったりしました。そんな時には、たまに子どもを乗せて船遊びをしました。船遊びといっても、船に乗せるだけですが、子どもは喜んでいました。
 この近辺ではトマトを作っていましたので、トマトをたくさん出荷していました。八幡浜の五反田(ごたんだ)に国産トマトケチャップの加工工場があったので、そこに出荷していました。昔の木のリンゴ箱に入れて出荷していました。製品のトマトは、木毛(もくもう)(木材を糸状に削ったクッション材)を入れて、外部から衝撃を受けてもトマトが傷付かないように、大事に出荷されていました。トマトは高級品で、青いトマトでした。昭和40年(1965年)ごろまで出荷していました。
 しかし、九町でも、昭和35年(1960年)ごろからミカンが広がり始めました。ミカンも当初は船で運んでいましたが、自動車の普及とともに陸上輸送が主流になりました。今、九町では温州ミカンは少なく、夏柑が多く栽培されています。」

写真3-1-4 九町の大波止と小波止

写真3-1-4 九町の大波止と小波止

伊方町九町。平成24年1月撮影