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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)神々と山のくらし

 ア 神宿る森林の伝承

 危険の多い山仕事の安全を願って、山しづめのまつり(魔(ま)よけ)が古くから行われており、近年は生業の変化に伴ってその伝承が希薄になってきたものの、山で生きてきた男たちはほぼ共通した儀礼を語るのであった。

 (ア)山鎮祭(やましずめのまつり)

 **さんは、「小田深山の担当区でやっとるのは年2回じゃな。5月9日と9月9日じゃった。正・五・九月の正月に面河ではやっとった。」といい、営林署で行う祭祀は、夏場の作業を終えて、植林と伐採の季節を迎える9月9日を、回数が減った山の神祭りの主祭祀としている。
 小田深山には七供養(ななくよう)とよばれる念仏供養が残っている(⑩)。①生草(なまくさ)、②桶小屋(おけごや)、③本谷(ほんだに)、④はなつき、⑤地蔵渕(じぞうぶち)、⑥手川(てがわ)、⑦柾小屋(まさごや)の7か所で、今も古い木やほこらが祭られている。昔は、旧1月15日と7月7日に供養が行われていたが、今は7年目ごとに七つの塔婆をたてて念仏供養をしている。
 おむろやほこらが建ててあるのは桶小屋と地蔵渕の2か所で、スギ・ヒノキ・カエデなどの古木が祭られているのが通常である。
 **さんはまた「一位(いちい)の木は神木(*15)で、大事にせんといかん。神が宿るともいわいな。それから、峰の三つまたの木とか沢の二(ふた)またの木とかは神木として祭ってあるものを見ることがある。」ともいう。
 『山村海村民俗の研究(⑪)』によれば、山の神を祭る場所として、宮やほこらはなく大本や石などの印のあるもので一つの山に多数あるものを取り上げ、山の神祭りの原初的な形態としている。面河や小田深山の集落のように、山を買って材木を切り出したり薪(まき)を採ったり炭焼きをする場所が住地に近いところでは、山の神の座所が森林の中で次第に増えていく。
 今回の聞き取り調査によって、県境山村には小田深山・面河山にみられるような、いわゆる山嶽崇拝の山の神信仰ではなく、山村の実生活に即した山の神信仰が伝承されていることが分かった。山というのは、生活の基盤である山林原野そのものであり、くらしと密着した山の木や石に神の座所を定め、人々の願望を聞き届けてもらうことを願うのである。
 **さんも「山を買うて材木を切り出すときには、まず山の神を祭ってから仕事を始める。」のである。「仕事をしようと思うたらお墓が見付かってな、『よい!これお墓ぞよ。』いうて、知り合いの法印さんに来て拝んでもろてな。『ちょっと横へのいとってください。』というて。」仕事を始めた。終われば元の位置へお移しする。「わたしらのような仕事をしとると墓石と思われるものに時たま出くわすことがありますがな、それはもうきちんと供養して霊に守ってもらわないけませんけんね。」という。また、「昔、林道がそれほどついてない大正の初めころじゃと思うが、軌道車林道(きどうしゃりんどう)を付けるときに大分人が死んだそうです。その墓じゃろと思うが、名前も書いてない小さな石が置いてあってな。そらもう一目見たら、お墓じゃというのは分かりますわい。」ともいう。神が宿る木や石、死者が眠る奥山の苔むす石に対する山の男たちの恐れと祈りをみるのである。
 『美川の民俗(⑥)』では、山の神の休む木を意味する「はね休み木」は切ってはならないものとし、山の神の御姿を「男の天狗」・「羽のはえた天狗」といい、『久万の伝説(⑫)』には「天狗の羽根休めの大木」の中で「天狗は、空を飛ぶ時大きな木の上に止まり休んでは次の大きな木に飛び移る。このような大木は村中至る所にあり、切ってはならない神秘な大木として人々から恐れられていた。」と、父二峰地区の伝説を紹介する。天狗は鼻が長く一本歯の下駄をはき、手にはヤツデの葉のようなうちわを持ち、自由に空を飛んでいたと信じられていたのである。『石鎚山麓(ろく)の昔話(⑬)』には、石鎚山を修験道の霊地と定める天狗飛来の伝説があり、石鎚山を囲む山麓地帯に天狗伝説が共通している。これらの山間部では、山の神と天狗は一体化しており、「はね休め木」を切ればたたりがあると恐れたようだ。
 **さんは石鎚山から小田深山にかけての高くけわしい山で、40年の長い開山の切り出しを続けた逞しい山男である。車庫で乾燥している切り株の太さもさることながら、玄関に掛けた天狗の面(写真1-1-17参照)は大きくすごみがある。
 毎年正月2日のお山もうでは欠かさぬという。「石鎚山へお参りして、もんてから氏神様を拝んでからでないと山へは入らんのよ。」と信心深い**さん、「正月9日は、昔から山の神が森林へ降りて、木で休まれる日といわれとらいな。パノラマ台より上へは誰も登らんけんな。」という**さんに山鎮祭が引き継がれている。

 (イ)イヨス山の火入れ

 「創作館がいよすだれをやるようになってからは、館長がお神酒を1本持って上がりますのよ。」という**さんは、今ではイヨス山にしか残っていない焼畑儀礼を以下のように語る。
 「昔は4日も5日も刈るのに(日が)かかりよったな、1週間くらいかかりよったんじゃろか。今は大勢出るけんな、朝出てから3時か3時半までには刈ってしまう。その後、その日に焼くんです。お神酒とにぼしを神様にお供えして、館長か地元の人がおはらいをしてな、飛び火をせんようにお祈りして火をつけます。」
 点火は警察署の許可が要る。久万町役場では林業課が担当して、警察署・消防団・地元消防団及び森林組合への連絡をとる。火道(ひみち)を切るのは森林組合に委託する。「創作館は年寄りですけん、火入れのときは火の番をするくらいで、まあ見学する格好でしょうな。」と**さんはいう。終るとみんなでお神酒をいただく。
 **さんは、「刈り取った後は、翌年若ダケの成長を促すために山焼きをします。まず火道刈りをし火をつけます。風ひとつない穏やかな日でも火をつけると風が吹き、火がものすごく燃え上がり竜巻がおこることもあります。今日(こんにち)ではほとんど山焼きの習慣も忘れ去られ、素朴で男性的な春の山焼きもこの山だけになってしまいました。」という。
 山の一番上に火をつけ、だんだん下へ焼いていく。点火場所がおはらいの場所でもある。
 「火入れが済んで、時間があったら肥料をまいて帰る。」ほど早く作業が進む。火の進み方がよく見えるので、夕方から夜にかけて焼いた昔の火入れからは、焼畑の光景もかなり変ったものになった。

 イ 霊峰石鎚と人々のかかわり

 (ア)お山がけ・お山開き

 **さん(美川村日野浦 大正8年生まれ 74歳)
 「ここらの慣例で、15歳になったら参りよったんですが、わたしはあんなことになって(破産)、ですから(他人からは)言うてもくれないし……。」というわけで、今日では石鎚神社の元老大顧問で鎖元(くさりもと)事務総長を務める**さんは、15歳の男子の儀式であるお山がけをしなかった昔を振り返る。
 昭和14年12月、召集で中国へ行く前に、「お願いもしようし、お守りも持って行け。」と先達さんにいわれてお山参りをしたのが2度目であった。「お陰で帰れたもんですからお礼ですね。」と、お札返しに石鎚登拝をした。それからは1年も休んだ年はない。「何か支障があるもんですよ。不幸でもあると遠慮するでしょ。1年も欠かさなんだというより、1年も欠かさず行けたということですよ。」と、そのことを喜ぶのである。
 「おふくろが昭和57年に亡くなるまで葬式一つないでしょ。僕がかかることもなけりゃ、子供が3人できたがみな1月生まれなんです。」と奥さんの出産も都合のよい時であったという。「差し障りがなんにもなく、毎年行くもんですけん、『あいつはまあ熱心な、欠かしたことがない。』ということで、現在は上浮穴崇敬組合長をさしてもろとります。」という。久万町明神の前組合長が夏山を終ると9月にぽっくり亡くなられ、「お前やれといわれたんですが、2年待ってくれ、神様のことやけん放っとくことはないけんいうたんですが、是非にといわれて、教育委員長をやりもって務めさしてもろたんです。」という次第。
 「お山は本当に神聖で清らかで、修業というか心から鍛えられるという良さがあるんです、あのお山は。」という。また、神様が「1度は来い。2度は来(く)な。3度来る奴はずっと来い。」といわれるのだともいい、「最近は観光的になってきたけど、それまではもう厳しくて、1週間は行(ぎょう)をして来いということでしょうか、1週間は女断ちをし心身を清めて上がらねばならなかった。」と精進潔斎(しょうじんけっさい)の必要を説き、みそぎを受ける場であることを強調する。
 昭和21年の5月に復員してお礼参りをしてから平成5年まで実に48年間続いた石鎚参りである。昭和57年には、先達(せんだつ)の最高位である元老大顧問に就き、昭和60年には銀笏(ぎんしゃく)をいただいた。

  a 間違いのないようにお導きを

 半世紀に及ぶ石鎚信仰の、**さんの願いは一貫して「間違いのない人間に」であった。「わたしを出世さしてくれ、物を食べさしてくれというのではなく、今日も1日、間違いのないようにお導きくださいという願いだけです。」という。淡々と語る**家の昭和史に、次第に引き込まれ心を打たれるのであった。**家は昭和7年に破産した。
 小学校高等科1年生の**さんにとって「県中(県立中学校)へ行って教員になるはずであった」夢を無残に打ち砕く父親の突然の死と破産だった。
 村の庄屋に次いで家督(かとく)(財産)があったという**家の祖父母には子供が無かった。入り婿入り嫁でもらわれた父と母に5人の子供が生まれたが、男は**さん1人であった。父親を「これが道楽者でしてね、たたいて(*16)しもたんですよ。飲む打つ買う、けんかはするでね。」といい、「父親のことだから憎うもないです、つぶされてもね。広い田畑を預かって(譲り受けて)も一切野良に出ず、放らつな生活に明け暮れる毎日。」であり、「最終段階では、愛宕まつりの当家(とうや)(当番の家)の席で、選挙のことで人をあやめたと自分では思ったんでしょう、己は墓の前で自殺したんです。お参りして直会(なおらい)して、酒の勢いもあったんでしょう。普段からド粋狂しよったんですけんど、撃った人はそのためには死なず助かりましたがね。先祖の力でみんなからあがめられていたので増長しとったんでしょうな。」と述懐する。
 「人には運命があるから、おやじが生きとったらとは考えなかった。学校へ行かなくても、社会にお付き合いできるように自分が努力すればよい。」と心に決めての日々の暮らしであった。「そらもう大事に育てられたんです。」という父親の生きようを見て、14歳の時から「今日1日、間違いのないようにお導きください。」と神に祈る毎日であった。

  b 母への感謝

 よくある嫁いびり。入り嫁である母親に対して大変つらく当たる祖父母であった。「悪口いうつもりはないが。」と前置きして語る母への仕打ちは、横暴な父親をかばってのひどいものであったという。「わたしらもばあさんとこへはよう行かないし、顔見るんいやじゃったですよ。鬼!これはね、鬼ですよ、極端な表現をすれば。……おふくろは苦労しましたよ、だからね。」という目には涙がにじむ。「だからわたしの感謝はおふくろに集中ですよ。それはね、素晴らしかった。」と絶句する。
 「子供のときから、おやじは百姓仕事をせいとはいわなんだけど、自分も全くしない。冬は猟をやりよってよく捕ってきた。うまいものを食わしてはもらったが、百姓仕事をせんくせによく母親をどずいたものだった。人間じゃないわいな。」という仕打ちに耐え、野良に出ない夫に手を焼きながら百姓仕事も子育てもやってのけた。一人息子の**さんは勉強が好きで、「これを教員にしといて、わしも面倒見てもらおうかのう。」という父親は、息子にも野良仕事をさせようとはしなかったのである。
 父の突然の死と破産によって、高一を中退した**さんも、ぼんぼん育ちの悲しさ、手慣れぬ野作業を母親仕込みで覚えていくのである。兵隊で昭和14年12月に中支へ赴くまでの約8年の間、「小柄な子供で力(体力)もないし能力もない。仕事いうても他のことできないでしょ。たんぼもよその牛借って、あぜの草刈りぐらいしかできなんだ。」少年が、死に物狂いの仕事で母を助け、入隊の年の3月には年上の女房をめとる22歳の青年に成長していく。
 「親族会議を開いたときには、何しろちびじゃったもんですけん、馬でも飼うて馬引き(馬で荷物を運ぶ)でもやれということじゃったんですけど、母親が何とか**家の田畑だけは作らしてくれと頼み込んでした百姓でした。」という**さん一家にはばく大な借金が残った。
 「昭和10年ころになって(破産して3年、**さん17歳)なんにもの売り上げが200円ぐらいあっとろかなぁ。それで税金が75円、年賦償還が110円です。そりゃもうね10wの電気料金月々62銭がしんどかった。借りて払いよったです。正月には全部できたもん渡してしもうてすっからかん、翌月からまた借りないかん。」という火の車。たばこも5反作っていた。年賦110円を15年償還する借金があった。
 「あいよに制度(*17)が変ってきたですけん15年が10年くらいで終ってしもたんです。」という**さんは、現在たんぼは0.8ha余り(長男に譲渡)、分家の姉の0.1haあまりを併せて「1町歩くらいあらせんかな、コメだけではいかんけんたばこも20年やって。」という田畑は、つぶれた分家のものまで買い戻したのである。「若者が借金もぐれになって、働けど働けど楽にならぬくらしの中で、ぐれもせず、まじめによくやりましたね。」と言うと、「それなんです。今でも感謝しとるんですが、それは家族が健康であったということです。病人なし。わたし医者へ行ったことないですよ。」と言う。懸命に努力する母への尽きぬ孝養と健康への感謝が、**さんの心を奮い立たせ、一家を支えきったのである。
 **さんには母に対する強烈な思いがもう一つある。「22歳で若かったから、年上もろといたらためになる。」と思って、反対を押し切って一緒になった嫁へのいたわりである。「わたしの留守中7年間、食糧もろくろくない時に、食うだけは食うとかないけんいうて人もうらやむようなものを食べさしてな、嫁を大事にしたんですよ。」という。祖父母と父親のひどい責め苦に地獄を見た**さんにとって、嫁に対する母のいたわりは神とも仏とも思われるのである。「ひと(他人)が悪口言うてうらやんだそうです。何か親の方から仕送りがあるんだろうとね。」
 「帰って(復員)何日目かに、ダーッと大きな音がして、倉が落ちたわいと思いましてな。家屋の一部がつえ込み(*18)ました。7年間修繕もせずそのままでしたから。」と。借金を残しての日々のくらしの中では家をいろうこともできぬわけだ。「住むとこを残して、床からはがして次々と家を修繕した。金なしで、全部やりました。」という家の普請(ふしん)であった。「山の木は自分で切ってはつって(写真1-1-20参照)、運んできとかんと大工に渡せん。」のである。
 家の普請にはこうろくで組の人が手伝ってくれ、山の木も普請のためといえば特殊な木はもらえた。一番大きい縦びきの「こびきのこ」は太くて握りきれず、「そまばつり」は重くて腕へくる。
 大工さんと契約する際は「丸っぽではあてがわない(*19)。」という。それぞれ家庭に柚(そま)道具を備え、「前の日に山へ行って切り倒して、それからはつりましてね。角(角材)にして転ばんようにしておいて、翌日大工さんが来るまでに家までとって帰っとくんです。」と。大工さんへの賃金を節約するためにこうしておく。軍隊へ行ってから太ったという**さんは体格も立派であるが指も太くてのひらが大きい。太いこびきのこも重いそまばつりもこの手で操ったのだ。わたしの手がすっぽり包まれる。
 「普請にはみなお手伝いがあるわけですね、昔からの仕来りで。どこかに普請があるいうたらみんなが何日か出てくるんです。この家をやるときでも、ほんと、裸にしてしまって上の屋根になったら3日もかからんうちにやってくれましたよ。全部来てくれましてねぇ。」とかやぶき屋根以来の、村落共同体のくらしの文化を語るのであった。
 昭和21年5月に復員した29歳の青年は仕事に打ち込む日々が続いた。借金して残した先祖伝来の田畑を、留守の間「女ばかりで、どうせできやせんのに。」と悪口を耳にしながら守り抜いた母と嫁に心から感謝する毎日でもあった。元気な息子の姿を見た母親は、持病のしゃく(**さんはシャキという)も忘れ、15年の借金も10年ほどで返済できた**さんは、つぶれた分家の田畑も買い戻していく。「社会にお付き合いのできる人間に」と神に祈り心に誓った生きざまが、次第に実を結んでいくのである。

  c 烏帽子(えぼうし)でご奉仕

 石鎚神社のお山開きは7月1日から10日まで。事務総長の肩書きをもつ**さんはその間ずっと組合事務(*20)に携わる。今回は、石鎚信仰そのものでなく、**さんが事務を執る小屋(事務室)を通してのお山開きをみる。
 「わたしは昭和52年から奉仕させていただいている。」と話すのは鎖元(くさりもと)総長の肩書き時代をさす。三の鎖の元に作られた事務所である。高知や久万からは裏参道とよばれるコースで登り、信者の数も少なかった。石鎚スカイラインの開通によって、バスを利用した県外の観光客が増加し、表参道の成就社を経る登拝者数に迫る勢いになったころである。
 「スカイラインができて(昭和45年)全国のバスがどんどんはまってくるわけです。成就社の社務所だけでは事務処理がはかどらず、上(山頂付近)が混雑して、バスが待つ土小屋まで降りれんようになったんです。そこで神社としては、すべての信者を扱うために総合事務所というのを鎖元へ作ったんです。小さい事務だけは総合的に扱おうということで。先達(せんだつ)の階級も、元老以上になるとやっぱり宮司先生がおいでる所でないと指令が出ないわけですから上(鎖元)では扱えません。社務所のある成就社と鎖元事務所を毎日往復する連絡の係がおりまして、それに委託して神社の許可があったら、また何日かして次の便で上って来てもらうという、大きい事務はそんな形になっとるんです。」という。平成2年に土小屋を改築したので、現在は土小屋で事務を執っている。
 「成就には神門(しんもん)があって戸が開きませんから全然登って来ないですよ。ところがスカイラインは夜通しでしょ。神門がないからね、サーッと来て勝手に登っていく。そじゃから暗い2時が3時でもね、起こされる場合もある。事務を始めるのは朝5時としている。4時になると上は明るい。」
 「困るのが電気ですよ。」と笑う。「もちろん天気の悪いのが普通ですからね。」とまだ笑っている。「頂上の白石旅館が自家発電で、そこから送られるので満足に明かりが無い。暗いんですね。」とやっと納得したわたしの顔を確認して、「お山間は天気の悪いのが普通で、事務執らないかんのが小屋ですから懐中電灯も使うたりしてやりますのよ。きっちり(小屋一杯に)入って来るでしょ。そしたら、雨は書類の上には落ちるはね、暗いわでね事務執れないですよ。最後の2、3年か、据えとく電気をやっと買ってもらって、机の側へ置いて事務処理をした。」
 「あそこまで参拝に来られて、どうしてもやってくれというのを、時間が来んからやらんというのも全く官庁じゃないんですし、そらやれるだけのことはやったげないかない。ええ。」と、講中の預かりものやら先達の昇進やら、すべて記帳して金品の受授も行うのである。「それの総まとめがわたしなんですが、殺倒したらもうガタガタ。日曜日は大変。」だという。
 「10日間で400万円近くは扱わないかんです。今は大方で(全体で)1,000万円くらいになるでしょうか、本当に事故なく終らしていただいた。」と感謝するのであった。

  d 困るトイレ、ふろには入らぬ

 「天気がええのは何年かに1遍」であり、「天気が悪いと、ガスと雨とですが、風の強い山の上ですから台風と同じ。」という。そういう嵐の中の生活で一番困るのがトイレらしい。
 「ちょっとわき(横の方)へ作ってあるが、断崖絶壁でしょ。その岩の根へ、ヘリコプターでつり上げた鉄骨をつなぎ合わせて作っとるから、もう石ころがガラガラとトタン屋根へ転がって大変なんです。ご婦人が登ってこられても、トイレを聞かれるのが一番つらいです。1か所だけで2人しか使えませんし、夜など懐中電灯をつけて行かんと危ない。それはもう宙づりみたいなところで。」という。そのトイレ、ドアがちょいちょい(度々)壊れるらしい。頂上へ駆け登って成就社へ電話連絡をし、修繕してもらう。成就社までは神社棟梁が来ている。大工仕事もできるでしょ?と水を向けると、「仕事はできんことはない。道具と材料でしょ、問題はね。」という。10日間の着替えはかるうて上がるが、他の物まではどうにもならぬらしい。お山開きの期間中、一番不便なのがトイレのようだ。
 もう一つ困るのは、国有林であるため土地の利用が許可されぬことだという。「まあ、参道は森林をいためないようにと補修の許可が出て、年々1,000万円ほど入れていますからね、以前に比べれば素晴らしい参道になったんです。しかし、建築物は一切できない。あれもこれも、神門ができれば混雑しないで済むんですが。」というのである。
 森正史氏の『石鎚信仰と民俗(⑮)』によると行者堂から上では不浄は厳に慎しみ、やむをえず用便をするときはチリ紙を敷いてその上にし、さらに上にチリ紙をかぶせて銭1文を置いた。これをオハライ銭とよんだとある。
 「大便はしたらいかんのやけど、必ずチリ紙を敷いてやっとりました。どこにも白いものが見えよりましたから。」と**さんもいう。
 「浴槽もちっこいのを上げてもらってあるんですが、おふろへ入ることもまずまずない。それでも1回沸かしてもらったね。大体、水が天水ですから、天気が悪いといってもむちゃくちゃはないですよ。小さいタンクを上げて集めとるんですが、飲料水がなくなったら交代で汲(く)みに行かないかん、あるとこまでね。そじゃからおふろなんかは。」という節水である。
 期間中は専属で炊事当番がつく。粗末なものではあるがありがたいという。「あそこまで上るとうまく炊けないんですよ、気圧の関係でね。半煮えの飯よね。だから雑炊にしてもらうのがよかった。魚は1日(7月1日のお山開きの日)に成就社から仲持(なかも)ちさんが負うて上がってくるから、晩には何かお魚が食べられました。」と語る。
 上浮穴崇敬組合長の**さんは、組合事務総長として神社に貢献する傍ら組合運営の責任がある。「信者がどんどん来るところは(昇級の申請件数も増えて)楽なんですが、上浮穴のように郡単位では人口が少ないので難しい。」という。一方では「上浮穴は小さいけれど石鎚山の足下にあり、裏参道の入口にも当たるので。」周囲の期待も大きい。
 「酒は薬にも毒にも……年とっても中々加減ができん。」と笑顔が若い**さん、「伏せ込んでしもたらあかんで。」と苦労人の奥さんを励ましながら、まだまだ当分は現役で、元老大顧問の真価を発揮されるであろう。日野浦の凸凹道にハンドルを取られながらも、なぜかすがすがしい思いであった。

 (イ)1日で季節が変わるお山の気象

 『愛媛の気象百年(③)』の回顧録の中で大成公道氏は「石鎚山観測所の思い出」を次のように述べている。
 「山から熊が降りて行く 桜の里に降りて行く 後には、これから熊になる 四人の男が残ってる 悲しく、淋しく残ってる (交替勤務風景)。」
 これは、当時の山頂観測所の日誌の1ページに書かれていた詩だという。戦争中、通信施設はもちろん、ラジオの一つもなく、外界から切り離され、毎日数回の気象データを得ることを命題として、お国のために黙々と働いていた若者がいたのである。1人1日約2合の米とわずかな缶詰を頼りに頑張ったとある。
 また、真夏の夜、雷雲に包まれた中で初めて観測したセントエルモの火(*21)やブロッケンのお化け(*22)も忘れることができないと。
 昭和18年10月1日に業務を開始した石鎚山観測所は、昭和23年7月31日に業務閉鎖、わずか5年半の貴重な記録である。
 大成公道氏は、また、『石鎚山系の自然と人文(⑮)』の中で、2年足らずの経験とことわった上で「石鎚の四季」を以下のように述べている。
 春、夏、秋、冬、これを地上では3か月ずつに区切っているが、石鎚山の四季は1年のうち7~8か月が冬、あとの4~5か月を春と夏と秋が分け合っている。これではあまりにも不公平なように思えるが事実は致し方がないとして、山頂日誌の1節を引用している。
 「昭和22年4月27日(高曇後霧夜に入って雨)山頂勤務第2日、午前5時30分、美しき太陽とともに起床。2人で今日の燃料の準備……中略……次第に風強まり雲に包まれ夕刻より雨となる。風向は南……中略……下界の農作物に慈雨となるべく雨よ降れ、そしてすべての氷を溶かして春を早く呼びさましてくれ。」この文は明らかに春を恋しがる人間の願いである。
 この日誌にある4月27日の南の風、いわゆる気圧配置が典型的な春の旋風型となって南の風を送りこんだとたん、てのひらをかえすように翌日から谷間でウグイスの美声を聞くのである。
 「昭和22年4月28日(晴)『おーい、早く起きてこい。』の声に驚いてとび起きる。外に出てみると一点雲もない。快晴……中略……この山にもとうとう春が訪れたようだ。ウグイスの声も耳にした。冬将軍はついにその矛を引いた。俺たちが待ちくたびれていた春が今眼前にその姿を現わしたようだ。
 こうして春は訪れた。極端にいえば、1日で季節が移り変わるように、急変するのがお山の特徴である。これから1か月余りが石鎚山の春である。この短い春を命として鳥や花など一時に咲き競うのである。」と。
 さらに結びの章で山ならではの景観・美観を懐かしみ、「まき雲、つるし雲、滝雲等々谷間から次第にわき上がりつつ消え、消えつつわき上がり、次第に全山を覆ってゆく雲の変化……等々山ならではの美観は次々とつきせぬ思い出となろう。げに石鎚山に登らんとする者にとって、花鳥を楽しまんとする者は5月、風月を楽しまんとする者は7・8月、壮厳・偉大・スリルを楽しまんとする者は雪の山にいどめ。」と勧めるのである。

  a 石鎚山頂の気温

 石鎚山頂の気象観則所で昭和20年5月から昭和22年4月までの2年間に観測した資料である。菅修氏は、統計的調査としては期間が短いものの、貴重な山岳資料であり、石鎚登山者には役立つもの(⑮)として取り上げている。
 一番低い2月の氷点下8.4℃は北海道の旭川や帯広付近の国内での極寒地方に匹敵する。最高気温は26.9℃が昭和21年(1946年)7月16日に、最低気温は氷点下18.8℃が昭和22年(1947年)2月3日に記録され、共に観測期間(昭和18年10月1日~昭和23年7月31日)の最高または最低となっている。

  b 石鎚山頂の降水量

 観測所が山頂にあったので風が強く、雨が横なぐりに降る傾向があり、また冬は雪に悩まされて正確に観測ができていないという。また降水量は年によって変化が大きいので、平均的な値を出しても意味がないとも。松山の雨量と比較すると約20%多い。
 月別日最大降水量では342.0mmの日雨量が昭和21年(1946年)7月29日に記録され、この期間の最大となっている。冬季は雪がよく降り、その深さの記録が注目されるが残念ながら正確な記録がない。雪日数は年64日である。

  c 石鎚山頂の風

 大体7m/s前後の風が年中吹いている。松山では2m/s前後であるから3倍以上の強い風である。暴風日数(10m/s以上の日数)も281日で、年間の80%近くの日は暴風に見舞われている。なお、15m/s以上は145日、30m/s以上は8日である。

  d 霧・霧氷・裏御光

 霧という現象は山である関係から非常に多く観測されている。霧日数の月別回数表では4月から5月の頃がやや少ないようである。その他の月は一時的にしろ霧が月の80%以上現れている。霧の強さは視界何mと見通しの距離で表されるが、一寸先が見えないというほどのものはあまりない。しかし、視界30m前後という霧はしばしば現れている。冬季はこの霧のため樹木に着氷した霧氷現象が起こる。気温の高低によって粗氷(*23)とか樹氷(*24)とよばれる霧氷がつき、さまざまな形をつくる。また、冬季に限らないが裏御光(ブロッケンのお化け)とよばれる現象も起こるのである。

 (ウ)チョウを分けて歩く

 **さん(松山市新石手 大正11年生まれ 72歳)
 **さんは、昭和55年(1980年)に愛媛県立博物館を定年退職した。現在は面河山岳博物館の特別顧問として月に2、3度は面河村へ出向くが、自宅の庭に建造した「南日本生物史研究所」で、膨大な資料に囲まれて「好きな仕事を一生続けられる。」と研究に没頭する毎日である。が、最近は、「県内はもちろん、いろんな市町村から頼まれて、出かけることも多くなり、じっとさしてくれませんのよ。」という。

  a 博物館を

 **さんの小学校時代は家業の陶磁器卸売が順調でぜいたくなくらしであった。港に面した倉庫のそばに積まれた砂利石の中から瑪瑙(めのう)を見付けるのが好きな、おとなしい少年であったという。岩石に対する興味はそのころから芽生えていて、愛媛県立博物館の鉱物標本につながり、琉球列島の岩石標本収集にも発展していく。
 今治の会社へしばらく勤め、昭和17年に徴兵検査を受け、やがて徴用(*25)で佐世保の海軍工廠(こうしょう)(*26)へ入り、終戦まで3年ほどを過ごす。
 「復員は8月16日でした。(原爆投下から)10日たった広島を見たんです。太田川には水ぶくれの牛が一杯浮いており、人の焼けたにおいもぷんぷんしていましたね。せい惨なものでした。なるべく早く帰れといわれましてね。」という松山への引き揚げであった。「その年に石鎚山へ登りましてね、戦争で焼野(やけの)が原(はら)になってもこんなにすばらしい自然がある。こんな山が郷土には残っているじゃないかと感動しましてね。これを見て、博物館を造ってやろうと思ったんです。」
 石鎚山に感動した**さんは早速行動を開始する。「博物館にはまず資料とお金が要る。商売替えをして4年ほどかけて、当時の金で100万円ほど作った。その頃は木工会社が花形(はながた)産業じゃったのでそこへ預けて、月に10,000円くらいもらえるような配当にしてもらってね。月給が1,000円くらいの時です。十分ある思うて昆虫や植物の採集に夢中で取り組んだんです。本格的に調査を始めたのは昭和25年(1950年)からでした。」
 「昭和25年に松山昆虫同好会を作り、昭和28年には4万点くらいの資料ができたんです。学生さんらのたまり場が要るので本町(松山市)の家を借りまして松山昆虫館の旗揚げをしたんです。」という話の中に友人たちの名前がある。**さんや**さん。**さんは数少ない高校生であったという。その後昆虫館を三津(みつ)梅田町へ移し公開する。

  b 展覧会

 生まれ故郷の三津で昆虫館を公開した**さんたちは、愛媛大学農学部の石原保教授に教えを請いながら標本を集め、昆虫学者の仲間入りをしていく。「その間に伊予鉄ホールなんかで展覧会をやりましてね、非常に人気がありました。公共団体がやるべき仕事をわたしらがまねごとみたいなんやっとるんですけど。」と盛況ぶりを語る。
 「たまたま、わたしらの熱意が八木先生にも通じたんでしょうかね、博物館設立促進期成同盟も併せてやっておったんです。」と八木先生との出逢いに及ぶ。
 「先生は昆虫にはうとい人でしたから、まあ、あれを引っ張ってきたらわしの手助けをしてくれるじゃろと思われたんでしょう。お前来てくれるかという話になりまして、昭和33年にわたしが採用されるのと同時に準備室が開設されたんです。」
 半年の準備期間を経て、昭和34年4月7日にめでたく愛媛県立博物館がオープンした。以来、八木先生が退職されるまで15年間八木・**コンビの博物館運営が続く。「自然が先生じゃから自然から学べ。」とよくいわれた。その教訓を守って現在も自然観察を続けている。「昭和55年(1980年)に定年退職したのを機に郷土に自然をつくる会を起こし、会員は約40人、石鎚・面河の自然観察記録を手書きで発行しとりますのよ。『蝶と花』(写真1-1-22参照)の名前で、大体年に3回くらいです。第34号まで出しました。」という健筆ぶりである。夢の一部が、面河山岳博物館というすばらしい形で実現しましたねと水を向けると、「そういうことです。面河村1,300人には過ぎたものでしょう。村長さんの大英断です。」と感謝する。
 『蝶と花(⑯)』には観察のありのままが克明に記録されており、手書きの文章も**さんのぬくもりが伝わってきて評判がよい。また、面河山岳博物館が発行したガイドブック『面河・石鎚の自然(④)』は写真の美しさと解説のやさしさが心を打つ。

  c チョウを分けて歩く

 「以前とは随分変わってしまいました。」と語り始めたのは専門のチョウのことである。
 「最初(復員の年)石鎚に登ったときは、成就の方から登ったんですが、アサギマダラの大群が森林の中をふわふわと飛びましてねぇ。本当にこの世のものとも思えぬ光景でした。アサギマダラは、今では南の方から渡りをするチョウの一つだといわれるようになってきよりますけれども、これを見て子供の時から追いかけたチョウやトンボのことを思い出しましてね、これからの人生は一つ博物館を造ってやろうと思い付いたんです。」という。「普通でしたらチョウは割合に早いスピードで飛び交(か)いますわね、花でしたらチョウが吸蜜活動をしますから花から花へと忙しく行きますけど、アサギマダラというのは特有な飛び方なんです、ふわりふわりとね。」といって、さらに詳しく解説がついた。
 「幼虫が、キジョラン・オオカモメズルとかイケマとかの、アルカロイドを成分にもつ(有毒)植物を食べて、毒成分を体内へ蓄えて、天敵の鳥に食べられないからだに作っておりますので、『鳥さん、わたしを食べられませんよ、わたしは毒を持っておりますから食べられませんよ。』と、まるでひけらかすように飛ぶんです。群れて優雅に飛んでいても鳥に食べられる心配がない。」らしい。未経験な鳥でも1度食べることによってその効果が出るから2度と食べないのだ。
 「あのコースはブナの自然林が続いていた。今でもシーズンに行けば、例えば土小屋から尾根道を通って頂上へ行くコースがありますが、夏のお花畑で一杯飛んでいます。あのチョウは熱帯系のチョウでありながら涼しい山地を好むんです。台湾へ行っても、2,000m級の山へ行くと、石鎚山や高縄山や皿が峰の山頂のように、お花畑のある所へ集まってきておりますから。」
 「尾根筋は、チョウを分けて歩かないかんくらいお花畑へ群がってきておりましたわいね。今は減って。」というので、どんな割合かを聞くと、「チョウが1匹おるところは、昔は100匹おったと思ってください。」と即座に返ってきた。
 「尾根や山頂で待っていると、上昇気流に乗って小さい昆虫なんかも上ってきたんでしょうね。トンボやアキアカネなんかが待っておって餌をとっております。秋になると里へ下りて交尾・産卵をしますが、アキアカネの群れが山から里へ下りるさまが唱歌『あかとんぼ』です。」

  d 石鎚山の森林

 石鎚スカイラインは全長18km、車なら30分で土小屋の駐車場へ着く。西日本で最高峰の石鎚山は1,982m、麓(ふもと)の暖温帯林(カシ林)から頂上付近の亜寒帯林(シラベ林)まで、森林の垂直分布を見ることができる。
 **さんは、「下りは5時間くらいかけて歩いて下ります。」という。もちろん森林の垂直分布のようすを観察するためである。四季折々の植物と、そこに姿を見せる動物たちを詳細に記録していく。
 毎年銀行でもらうという手帳は、1冊が面河・石鎚の、1冊が松山周辺の、そしてもう1冊が琉球の記録簿である。びっしり書き込まれた手帳を40冊ほど見た。
 **さんらの手に成るガイドブック『面河・石鎚の自然(④)』によれば、石鎚の裏参道には見事な森林があり、その森林には多彩な顔ぶれが生息する。徒歩での石鎚登山道なら手に取るようにそれが見られるが、石鎚スカイラインでも車を止めて森林に見入る人々は多い。
 **さんの手帳には「チョウもあればトンボもあるし、花もびっしり書き込んでね、その日に咲いとるもの全部を。それにセミもカラスもキジも見たものは。」記録されている。石鎚山・面河渓の花暦(はなごよみ)は自然と付き合う人々にとって大変便利である。
 昭和33年(1958年)に発行された『面河渓・石鎚山探勝の栞(しおり)(⑰)』は、八木繁一著大面河観光協会発行となっている。亡くなられた牧野富太郎・本田正次・酒井黙禅の歌や俳句を随所に配したガイドブックの傑作(けっさく)である。八木先生と親交のあった人々がしのばれ、八木先生独特の筆法も懐かしい。既にこのとき、**さんは八木先生に協力されている。しかし、一読してこのしおりは植物中心に扱われており、末尾には植物目録まで付けてある。          
 『面河・石鎚の自然(④)』の方は、面河山岳博物館を拠点にして、多くの専門家の協力を得て作成されており、自然の広い領域にわたってやさしく案内してくれる。中川鬼子太郎館長の巻頭のことばには、簡潔な説明文の中に、自然にやさしい人間の思いが感じられる。
 野鳥の垂直分布は面白い。鳥のさえずりは、地域によりまた聞く人により様々であるが、読んで楽しい。鳥たちに巡り会えれば最高であるが、高度が変わるにつれて変化する森林の姿に、鳥のさえずりを重ね合わせるだけでも嬉しいではないか。
 **さんの自然観察記録は、見たもの聞いたものすべてに及び、ありのままを書きとどめていく。森林のいのちを透視する澄みきった目と、ひとつらなりのいのちとして森林をとらえ慈しむ心の優しさが、このすばらしい大自然を守っていくのだ。
 面河村では、村おこしの目玉として観光事業を位置づけている。毎年5万人を超える観光客が訪れる。
 **さんがいう「観光化した石鎚信仰」の人々、自然の宝庫石鎚・面河をフィールドとする調査研究の人々に加えて、自然体験を試みる人々の増加も目につく。
 「面河で時々出会います。」と**さんが語る**さん(小田町吉野)は、自然観察指導員連絡協議会代表として活躍している。単に地域おこしの一イベントではなく、かけがえのない地球の、地球環境の保全をめざす息の長いフィールドワークである。21世紀の担い手たちが、愛媛の自然をとおして育ち、すばらしい環境づくりに参加する姿を森林の神々は期待しているはずだ。


*15 : 笏の材料として使われている。
*16 : 財産を使い果たす。
*17 : 農地制度。
*18 : ついえる、つぶれる。
*19 : 丸太のまま引き渡すことをしない。
*20 : 上浮穴崇敬組合など13の組合がある。他県は県単位。
*21 : 気象現象。夏、特に山が雷雲で包まれた場合に見られる現象で、闇の中、鉄柱や針金から一面にうす赤い炎が出る。さ
  わっても何ともないという。
*22 : 頂上で自分の後に太陽を受け、前面にちぎれ雲や霧がある場合に見られるという。信仰者には「お山の裏御光」として
  尊ばれている。
*23 : 樹氷に比べて温度が高いとき(0℃近く)にでき、透明または半透明の霧氷。
*24 : 過冷却水滴から成る霧が風に送られて樹枝その他の寒冷な地物に衝突し、そこに凍りついて氷層を成したもの、空気を
  含み白または不透明、-5℃以下。
*25 : 国民を強制的に動員し、一定の業務に従事させる。
*26 : 海軍の艦船・兵器・弾薬などを製造・修理した機関。

写真1-1-17 木彫りの天狗面

写真1-1-17 木彫りの天狗面

(左)三島神社に奉納された天狗、(右)**氏所蔵の天狗。平成5年10月撮影

写真1-1-20 家屋修築に使った杣(そま)道具

写真1-1-20 家屋修築に使った杣(そま)道具

(左)こびきのこ、(右)そまばつり。平成5年8月撮影

写真1-1-22 「蝶と花」

写真1-1-22 「蝶と花」

平成5年11月撮影