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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)平野部と山間部の交流

 峠の昔の面影を**さん(久万町大字久万町 大正10年生まれ 72歳)の口述と文献でまとめる。

 ア 馬子唄しのぶ

 三坂峠標高720m。気温が100m毎に0.6℃違うというから、それだけに峠は夏の間は天国で観光客で賑わう。この峠から眺める国立公園瀬戸内海の島々と、松山城を中心とした松山平野の展望は、旅客の目を楽しませるのに十分である(写真2-1-1参照)。この景観を賞して三坂峠を訪ねた有名無名の客は古くから多く、中でも松山が生んだ俳聖正岡子規は、記録によると明治14年(1881年)と、同22年(1889年)の2回にわたって友人とともに訪れている。子規の句と漢詩(三坂即事)が刻まれた碑が峠にある。
 今でこそ松山から久万まで約40分で行ける。昔は往復に2日もかかった。松山の「札の辻」を起点として、松山の荏原(えばら)から久谷を経て、三坂峠に至る道は往来する人々で賑わった。しかし、この道は山並みを横切らなければならないので難所も多い。特に、旧街道沿いの一番奥まった松山市窪野町桜地区(標高300m)から峠まで、急峻な坂道が2km続き、土佐街道最大の難所となっていた。でも城下町と久万地域とを結ぶ重要なルートでもあったため、荷駄(馬で運ぶ荷物)の往来も多かった。同地区で遍路宿と飲食店を開いていた**さん(97歳)は、愛媛新聞(平成5年7月9日付け)に「久万の牛市がある日なんぞは、そりゃ賑やかでのう。上る人も下る人も休んでくれてのう。国道が抜けてもしばらくは頑張ったけれども…。」と往時を懐かしむ独り暮らしの古老として語っている。
 峠から真下に見える方向に旧道が残っている。細い山道、誰もいない。大昔は首に鈴をつけた駄馬(荷をつけて運ばせる馬)が荷物を振り分けて歩んだ道である。
 馬による物資輸送は、当地方において最大最良の方法であったようである。これらの馬を使用する人々は「駄賃持ち」と呼ばれていた。当時は、道路の幅員が狭いので荷物を満載した馬と馬との行き違いは、非常に困難を極めたものである。そこで各馬の首に合図の鈴をつけて往来し、鈴の音を聞けば手前の広い場所で待って離合するようにした。
 朝は、星をいただいてちょうちん片手に馬の背に荷物を積んで三坂峠を越え、あるいはサレガ峠(二名(にみょう)と広田村境)を越え、松山城下、郡中等へと、すべての物資を輸送し、帰りは荷物を積んで日暮れて三坂峠にかかり、家路に着くのはまったくの夜中であった。
 その時代の人々の苦労をしのぶとき、文明のありがたさをつくづく感じるものである。
 久万地方に唄いつがれた馬子唄に

   えらいものぞな   明神馬は
   三坂夜でて     夜もどる
   三坂通いすりゃ   雪降りかかる
   帰りゃ妻子が    泣きかかる

 真夜中に家に帰り、馬の飼い葉を終えて、履物のわらじと、馬のくつを2・3足作り、床につくのが午前2時・3時であったという。馬子唄には、小田方面へ行ったのと、松山方面に行ったのとあり、ほとんど同じであるがわずかに節回しに違いがある。毎年文化協会主催の発表会には唄っているとのこと。
 土佐街道の谷間に高く、あるいは低く、こだまして情緒豊かに唄う馬子唄の余韻は、さらに、ゆかしく、のどかな風情であったようである。今でも、旧道をしのんで歩いて降りる人もいるという(森松まで約2時間)。しかし、その数はきわめて少ない。

 イ あげ牛(牛の移動)

 あげ牛とは、大正の初期をピークとして終戦まであり、二つの形態があった。その一つの里牛は、温泉郡や松山の農家から農閑期だけ預かって飼育する方法で、里の田植え後から麦のまき付け前まで「夏牛」として預かり、麦のまき付け後より、翌年の田植え前までを「冬牛」として預かっていた。二つ目は、久万の牛も農閑期だけは貸し出して、温泉郡地方の農村に使役させていたが、こちらは数の上ではわずかであったようである。この里牛の始まりは、明神村で、明治43年(1910年)には110頭の里牛があったといわれる。その後、久万、川瀬、父二峰にも広まっていった。
 『愛媛の峠(③)』によると、松山の久米などの農家では、牛による農耕期がすむと、久万の農家に飼育してもらう。久万の人は山には草が一杯あるから飼育もできる。さらに肥育料ももらえるという一石二鳥。松山地方の農繁期が始まるまで預かる。
 「日によっては100頭もの牛が峠につながれていた。現在も峠に、牛馬のつなぎ杉・石等が残っている。」と語る。
 預かり賃は、「お金は取らない。牛のふんの肥料代が代金の代わりになっていた。」と語る。
 『上浮穴地域民俗資料調査報告書(④)』によると、年間6斗くらい(90kg)、夏牛が4斗くらい(60kg)冬牛は2斗くらい(30kg)の米代をもらった。当時、牛一頭が100円から120円、米は明治末期で1石(150kg)当たり10円から15円くらいであった。地域によっては預かり賃として、飼い賃(お金)とおみやげもの(伊予かすり等の反物)をもらっていたようである。         
 また、『久万町誌(①)』には、利益は山分け、または、6分を飼育農家、4分を預け主が取るというしくみであった。預け主にとっては、かっこうの利殖法であったと記している。
 この牛の受け渡しは、両方の農家と農家の手によって三坂峠で行われ、峠の茶屋で一年の労をねぎらって一杯やる。牛を渡す時、牛がやせていたりするとけんかなどとなり、仲裁しなければならないこともあったようである。
 『愛媛の峠(③)』によると、茶屋の主人であった**さん(63歳)は、「峠はほんと、変わりましたなあ。何ぞに書いていたらと思うくらい。」**さんの代では茶屋は峠に2軒あった。その昔は7~8軒もあった時代がある。明治から大正にかけては客馬車が久万から峠まで通っていた。峠からラッパを吹く。山道を峠に向けて登ってくる久万方面へ行く人たちに客馬車の出発を知らせると記している。今では茶屋はなく、戦後伊予鉄ドライブインができている。

 ウ お遍路さん

 下畑野川河合の部落は、久万町菅生(すごう)の四国八十八か所第44番の札所菅生山大宝寺から峠御堂(とうみどう)を越えて、第45番の札所海岸山岩屋寺に至る遍路道にあたる。
 第46番札所医王寺山浄瑠璃寺に至るには、岩屋寺より逆戻りして河合から千本峠を越えて、久万町西明神に出て、さらに、三坂峠から北へ下って行くのが普通の遍路コースとなっていた。この道筋の分かれ道や、危険と思われる場所には標柱が多く立てられていて、道の案内や遍路さんの安全を祈ったものと思われる。
 遍路さんが、久万大宝寺を参拝し、河合を通って岩屋寺を参拝し、また、同じ道を通って河合に帰って久万山に出ることを、「うちもどり」と言っている。河合の遍路宿には、「うちもどり」のために大きな荷物を預けていくように遍路さんにすすめたと言っており、特に、宿では旅に便利なもの(雨カッパ等)を用意してそれを貸していた。それは「うちもどり」のために返ることが確実であったからである。河合は遍路さんの「うちもどり」の地であったので、宿屋の多くが栄えていた。明治時代には15軒の宿屋があり、春にもなればいつも満員であり、300人は宿泊していたという。その他に、近くの農家も季節宿として多くの遍路さんを泊めていたとか。     
 『上浮穴地域民俗資料調査報告書(④)』によると、かど屋旅館(河合の宿屋)では、宿屋の各室に定員名が記されており、それによると、6畳の部屋が定員9名、8畳の部屋は定員12名となっており、遍路さんの宿泊の様子が伺える。宿賃は、米1升25銭時代(大正時代)一人当たり35銭であった。米は遍路さんが提供していた。遍路さんは、一日当たり7軒歩いてお経を唱え、お布施をうけないと一日の修業が終わらないとされていた。そこで米麦をいただいていたのである。しかしながら、いつも気前良くいただくとは限らず、「おとおりなさい」という言葉をかけられて、一握りの米麦もくれない場合が多かったということである。
 現在これらの遍路宿はほとんど全くその営業を停止している。その理由は、『愛媛の地域調査報告集(⑤)』によると、第一に戦後の交通機関の発達で久万から岩屋寺へのバス交通が発達し、その上に、自家用車の普及で旧遍路宿の利用は不要になった。第二に兼業程度の遍路宿にとっては、設備の完備など経費がかさむばかりで、減少してきた遍路宿泊者を考慮すれば全くひきあわないことが考えられると記している。

 エ 盛況だった野尻(のじり)の牛市

 久万の野尻市といえば、ひところ関西一を誇り、春の野上げ市と秋の大市は、出頭数1,200頭を数える盛況だったとか。これらの市には、近県の業者はもとより、遠くは大阪、京都、広島から三坂峠を越えて訪れ、久万の町は人と牛馬で戦場のような数日が続いて、町の中は牛馬で一杯となり、恐ろしくて裏道を通って帰っていたとか。
 この人出を当て込んで、見せ物や香具師が店を張り、地元の者はそれぞれ家を宿屋に、耕地を牛馬のつなぎ場にかえ、草を刈って飼料を売るもの、わら靴を作って売るなどして農家の副収入としていたとか。
 開設当時の享保年間から明治の中ごろまでは馬市が全盛をなしていたが、その後、搬出、輸送交通の一切が馬から車に変わり始め、日清、日露戦争はこれに拍車をかけ、道路の改良とも相まって馬の用途が薄れ、それに代わって黒牛が導入され始め、明治の末期には牛が大半を占め、大正7年(1918年)には完全に市場の主役は馬から牛に変わった。
 農家の人たちは牛を引き出すためには、朝の2時か3時ごろから腰に弁当とわらじをつけ、長い道を野尻市に集まった。丹精を込めて育てた牛の売買が成立すると、互いに手打ちをして一杯の酒を酌み交わした。取引の好きな者は、何度も交換、売買をし、今度はよい牛が手に入ったと喜び勇んでつれて帰り、よく見れば自分のつれていった元の牛であったという笑い話のようなこともあったようである。
 戦後のどさくさで牛の数は半減したが、昭和24年11月の大市には、300頭と盛況を取り戻し、昭和34年の市を最高(秋の大市1,200頭)にだんだん下火になった。それは時代の流れと、畜産組合が経済連と合併、農協が中心となって、肥育牛を奨励し、仲介業者の手に渡らず、農家が直接割り入れを行うようになるとともに、農作業に利用されていた牛は、機械に変わり、牛を手放す農家が多くなってきたためであるとか。
 野尻の高野幸治という人がこの市場の開祖だといわれている。『上浮穴郡に光をかかげる人々(⑥)』によると、高野幸治は、性質が英気豪邁な父に似て快活で明敏であった。公共心にも富み、幼少の時から商売に興味を持ち、近隣の家畜商白石新七が日夜営々として馬を売買しているのを見て、大馬喰(ばくろう)になることを夢み、新七に頼んで馬を世話をすることを始めた。幸治は世話のかからない売買方法はないかと考え、自分が世話をした馬をーか所に集めて、秋祭りに定期的に交換の売買をしていた。これが野尻市の始まりで、そのうち、幸治に関係のない馬喰や新たに馬の入り用になった者、売りたい者などが集まり始め、その範囲も近郷に広がっていった。この市が発展したのは、幸治自身が自己の利益のみをあさるのではなく、世話が好きで皆の喜びをもって自分の喜びとし、売買の利便を図ったためであると記してある。
 最初は幸治市ともいわれていた時代もあったが、明治になって野尻の地が有名になって野尻市となった。

写真2-1-1 三坂峠より松山平野を望む

写真2-1-1 三坂峠より松山平野を望む

平成5年12月撮影