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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)茶堂の信仰を支える人々

 ア 七夜念仏の復活-魚成北谷茶堂

 かつて、城川町の茶堂では様々な行事が行われてきたが、現在は途絶しているものが多い。その中で、魚成地区北谷(きたたに)(旭町)茶堂では、近年になって組中が集まっての「七夜念仏」が復活した。行事としては最も長期にわたる「七夜念仏」が復活した経緯から、茶堂が現在の地域社会に果たす役割を考えて見たい。
 **さん(城川町魚成町中 昭和11年生まれ 57歳)
 「私は、魚成の隣の田穂地区の生まれです。家のすぐそばに沖之堂茶堂があって、戦前は夏には七夜念仏をやっておりました。寝よっても念仏が聞こえよって、毎晩遊びに行きよった具合ですから、念仏は自然な生活の一部でした。昭和30年に畳屋を開業して、この町中区(魚成地区)に移っても、また北谷茶堂(口絵参照)がすぐ家のそばで、魚成公民館分館主事でおった時には、茶堂の民俗調査に出会いまして、茶堂と念仏にはよくよく深い縁があったものと思います。
 この北谷茶堂では、戦前までお接待をやっており、昭和35年ころまでは七夜念仏を続けておったんですが、『お先達(せんだつ)』として前経(まえきょう)・称名(しょうみょう)のさきがけ等の段取りをする古老が、後継者がいないまま亡くなるとともに、途絶えておったんです。しかし、念仏行事が途絶えた後も、茶堂にはいつも誰かが線香をたいておって、年配の方がお一人でお参りをしておるのも度々見かけまして、組の人等の信仰心をまとめるような行事を復活しようじゃないかということで、昭和50年から有志で七夜念仏の行事を始めました。最初は3人ほどでしたがやがて7~8人ほどになって、それが5・6年ほど続きましたか。私の生まれた田穂は、念仏やお伊勢踊り等の伝統行事を特に大切にするところで、念仏の節回し等は今でも地区全体が良く知っており、この魚成の商店には田穂出身の者が多いことから、それらの者が中心となって、田穂の文句と節回しで最初はやっておりました。ちょうど、それに呼応する形で、茶堂の行事を復活させようという機運が、組全体で出てきたように思います。
 一番のきっかけは、町が茶堂を萱葺(かやぶ)きにしたら修復費の半額を負担してくれるということで、昭和58年に傷んでおった茶堂を修復したことです。萱場はまだ魚成にあって、全戸が出夫で1軒が10束ずつの萱を持ちより、建てかえができました。寄付も集まったことで関心が高まって、58年から、8月8日から14日までの7日間、ほとんど区全戸が集まって七夜念仏が復活することになりました。昔は8月7日から13日まで念仏をやり、14日に『成就(じょうじゅ)』(打ち上げ)をしておったようです。そのようにして区全体の行事としてやりだすと、文句と節回しは町中のものは田穂と違っておったから、それも復活させようということになりまして、うろおぼえの記憶ですから意見の食い違うところもありましたが、今はその町中区としての文句でやっております。
 8日から13日までは坐り念仏で、茶堂の前で夜8時から1時間くらいやり、お盆の14日には『成就』として、昼1時から念仏楽(立ち念仏)をやっております。14日には、祖先供養ということもあり、帰省しておる人もほとんど参加しております。
 坐り念仏は図表2-3-18のようにやります。
 懺悔文は己の悪行を懺悔(ざんげ)しますという、キリスト教のアーメンのようなもので、前経としての心経奉賛文は、般若心経のいわれを説いたものです。光明遍照十方世界念仏が念仏の中でも大事なものですが、『弘法大師の教えの念仏』と言っておりますが、『阿弥陀仏』に祈って『一遍』の『なんまいだーぶつ』の念仏で『極楽浄土へ参る』など、弘法大師の影に一遍さんが見えるように思います。」
 **さんの言われるように、茶堂の念仏の経文は、一遍の教えの影響が非常に濃いように思われる。また、念仏楽(立ち念仏)の服装・鉦等の道具・所作は、『一遍上人絵伝』に見られる踊り念仏の姿との共通性が感じられる(口絵参照)。もとより、種々の念仏踊りは全国に分布するものであるが、本章第2節の新宮村の鉦踊りと、この地域の念仏楽は鉦等の道具・所作や経文が似通っており、他地域のものよりも、一遍の時代の原形を残しているのではなかろうか。踊り念仏の伝播や原形については、他県・他地域の念仏踊りとの厳密な学問的・宗教的比較が必要であろうが、新宮、東宇和郡山間部に古式を残したユニークな念仏踊りが残っていることは確かである。
 「魚成の念仏楽は竜沢寺楽の系統です。竜沢寺の末寺は50ほどあり、戦前の8月7日の『お施餓鬼法要』には野村町・城川町各地の末寺の代表者が集まって念仏楽を納め、あの広い境内も狭いくらいでしたが、戦時中の鉦の供出で中止になったままになっております。この念仏楽もこのままでは廃れてしまうという危機感から、昭和35年ころに『竜楽(りゅうがく)保存会』が結成されまして、魚成、田穂の各7集落から代表者が出て練習し、実盛送りや顕手院(けんじゅいん)・竜沢寺の法要で、それぞれ念仏楽をやっています。念仏楽は『ひんよー なむごーみど おん なむごみどー』と唱える①道行(みちゆ)き②七つと、『よーなむごみど おえ やーなむごみど おえ』と唱える③庭念仏(にわねんぶつ)、『なーもーでへい』を間に唱えながら鉦・太鼓の打ち込みが中心の④くずしよりなり、①~④までが『一庭(ひとにわ)』です。川津南の念仏楽と違って、激しい動きはなく、足の動きや体のひねりの一つ一つを大切にしております。実盛送りは田植えの後の田休みの適当な日に、害虫退散のために田んぼの間を歩き、田穂から魚成の今田(いまで)の杉(すぎ)の瀬(せ)の黒瀬川の河原まで、各集落が順送りで送っていくものです。田穂の宝泉寺で『一庭』あげて『お精根入れ』をし、田の間を歩く時は『道行き』をやり、途中の茶堂ごとにまた『一庭』あげます。河原では『門返(もんがえ)し』と言って最後の『くずし』をやります。私も保存会の古参になってしまい、皆で協力して一生懸命やってくれるのですが、鉦の間をとる太鼓が難しいため、私は例年最後まで付いて歩くことが多いです。
 北谷の茶堂は、以前は坂石方面に抜ける往還の交差点にあたり、出征兵士の見送りや八十八か所参りの見送りの場所にもなり、旧暦7月中はお茶の接待をしとったようです。今は接待はないですが、谷沿いに風が入って一番涼しい所ですので、茶堂を立て替えてからは若い人の飲み会や老人の夕涼みによく利用されております。線香や灯明も毎日誰かが供えており、朝晩の行いの中に茶堂が生きているような地域にしていきたいと思っております。」

 イ お接待、山の神-魚成蔭之地茶堂

 魚成の蔭之地区は、魚成川(黒瀬川支流)の標高200m程の河岸段丘上に位置する。城川町の中では平坦部の多い地形で、米作中心の農家が多い。茶堂前は、旧宇和島街道の鳥越坂に位置し、名刹竜沢寺及びその隠居寺顕手院が近辺にあることから、かつては通行者が非常に多かったと思われる。この蔭之地茶堂は、城川町内で唯一『お接待』(茶供養)が残り、また大日講や山の神の祭祀等の県下でも数少ない伝統行事を現在も残している。その行事の特色や、それを支える蔭之地の地域的特質を考えて見たい。
 **さん(城川町魚成蔭之地 大正元年生まれ 81歳)
 **さん(城川町魚成蔭之地 大正8年生まれ 74歳)
 「現在、蔭之地の茶堂でやっておる行事は、8月(以前は旧暦7月)1日から16日までの茶のお接待だけです。大日講や七夜念仏も以前は茶堂でやっておりましたが、今は公民館でやっております。今、町内でお接待をやっておるんは、うちらだけじゃないでしょうか。昔は、この茶堂前は街道として行き来する人も多かったようですが、私等が物心ついたころには、通るのは村の者ばかりでした。おへんどさん(遍路)は時々宿を借りて泊まりよりました。昔は、お接待の時期はちょうど草刈りで、帰りに皆寄りよったですが、今はそれも少のうなって、お大師さんにお供えするためというのが、主な目的となっとります。ふだんの茶堂の管理は区長の責任ですけんど、接待は前の番の者が『明日はあんたとこやけん頼みますらい』と言って、順番に当番帳を回してやっていきます。昔は旗も一緒に回しておりました。
 戦前までは、蔭之地のどこの家でも牛を飼っとりましたが、現在牛を飼っておるのは5軒だけです。1軒は大規模にやっておりますが。牛が少なくなった現在も、この牛や馬の安全と繁盛を祈って9月19日に大日講をやっております。以前は、茶堂の前に杭を立てて柵を作り牛をつないで、皆が煮しめなど入れた重箱持っていって、飲んだり食うたりして牛の批評をしよったんですが、今は茶堂で拝んだ後お札をもらって、飲み食いは公民館でやっておるようです。昭和30年ころまでは七夜念仏もやっておったんですが、現在は(旧暦の)7月21日に、顕手院から竜沢寺までの新四国八十八か所を回って、その後念仏をあげることで、七夜念仏にかえております。顕手院は8月1日に檀家(蔭之地、今田、男河内、野村町釜川)でお施餓鬼をやって、新仏のある家と寺総代は必ず行っております。この時には念仏楽(立ち念仏)をやります。寺総代は区長さんと違って4年任期で、蔭之地では神社総代も兼ねておるのでなかなか大変なようです。実盛さんは、蔭之地区から鉦1名旗1名を出して、田んぼには毎年寺で書いてもらう迎え旗を出しております。実盛さんの行列は、茶堂の上の田の間をずっと通っていくので、蔭之地の茶堂には寄りません。
 山の神さんは、蔭之地を見降ろす丘の上に祀られております。これは霊験あらたかなもんで、落木一つ拾っても黙って取ると崇られ、たまがされます(驚かされる)。前に私のばあさん(母)が、山から帰ったら肩が重とうてたまらんと言うので、お前山で何ぞ取ってこんかったかと(父に)言われ、そういやあ落木拾うてきたが、それじゃろうかというので帰しに行きましたら、(山へ行く時は)肩が軽うなったと言っておりました。断って取ったら問題はないようで、私も似たような経験がありますがな。この山の神が蔭之地の祀(まつ)り神です。春は正月の皆に都合のいい日に、お日待ちと伊勢踊りを兼ねて山の神のお祀りをやります。部落中全員が山に登って、太夫さんも呼んで御祓いをし、その後公民館に皆が集まって、お伊勢踊りをやり、終わるとお日待ちとして飲み食いをしております。年回りの悪い人(厄年)は、この時に拝んでももらいます。10月20日にも、山の神だけのご祈禱をやります。お伊勢踊りは13番ほどもありますけん、若い人は歌本がないとよう歌いきらんですが、毎年踊りはやっておりますので、所作だけは皆習い覚えてやっとります。
 蔭之地は、城川の中でもまとまりは一番いいですわい。神仏をお祀りすることでも、日常の当たり前のこととして、若い人もやっております。30戸あまりですが、全て地(出身)の者ばかりで明治・大正ころから変わってませんし、どの家も一応跡取りがおりますけんな。町内でも今は比較的交通の便がいいということもあります。この間、北宇和(郡)の人が、牛の売り買いのことでここに来た時に、『田も広いし、いいとこじゃねや』とたまげとったです。ただ、跡取り言うても、皆(農協・役場等の)勤め人ばかりで、私等年取っとる者は、死ぬまで農業を手伝っていかんといけませんがな。まあ、昔と違って、今は農業いうても、機械で1日やれば済んでしまうからできるんですが。
 山林は、窪野や高川地区では個人の山持ちが多いですが、魚成周辺の山はほとんど財産区で、昔も地区の共有山でした。戦前は、毎年萱刈りに行って、刈った後に山を焼いて灰を田にすきこんでおりました。戦後400町歩ほど植林して財産区が管理し、魚成地区の財産として使っております。今は除伐の時以外は山に上がらんですけん、中の小道もないし見通しもきかんで、1人で山に入るとよう出てこんでしょう。土居や窪野には大地主さんや資産家がおりましたが、魚成ではあまりそういう人がおらんかったですな。戦前は、泥田で条件は悪かったですが、蔭之地のどの家も7~8反の田と牛1頭ほど持って同じような生活をし、農業専従で他地域との交流も多くなかったのが、蔭之地に古い行事が残っておる理由の一つかと思います。」

 ウ 茶堂の復活-窪野片平茶堂

 **さん(城川町窪野片平 大正11年生まれ 75歳)
 「この片平の茶堂は遊子谷からの尾根越しの往還沿いにありまして、昔は郵便屋さんも含め遊子谷から土居に来る人は、ほとんどがこの道を使っておったもんです。茶堂ではお接待もあり、7月7日のお施餓鬼や21日の大師講なども盛んでした。ところが、昭和34年の伊勢湾台風で茶堂がひっくりかえってしまい、トタンぶきの仮の茶堂を作っておりましたが、老朽化で使いものにならなくなっておりました。その後はここから下った県道(野村-檮原線)ができて交通路が変わったことや、戦後の変動で伝統行事が衰えたこともあって、そのままになっておったんです。ところが昨年、この片平出身で大阪で事業を営んでいるWさんと言う方から、お父さんが亡くなられた供養に故郷に何かお返しをしたいということで、茶堂再建のために100万円の寄付の申し出がありました。それを区の常会ではかりましたところ、片平区全体でやろうという話になり、一晩で『茶堂建設委員会』結成の運びとなり、私が会長としてお世話することになったんです。萱ぶき屋根の茶堂の修復には半額を補助するという、町の施策も大きな力になっておりました。
 どうせ再建するなら町全体のモデルになるような物を作ろうと、地域全体が大変盛り上かって協力してもらいました。それぞれの持っとる山の百年木の天然檜を4本も出してもらい、樹齢の高い杉なども20本あまりそれぞれが持ちより、伐採・搬出・製材も地区の者だけでやりました。片平の戸数は以前は17戸であったのが、過疎で現在10戸しかありませんし、平均年齢は60歳近いんですが、この10戸で170人役(延べ労働日数)を負担したんです。建設費は160万ほどですが、20人役の作業に出た人には日役5千円を出し、これらを含めると300万円ほどになります。一番苦労したのが萱で、ここらあたりには萱がなく、一度は大野が原に行ったんですが、初雪が早くて引き返さんといかんこともありました。増田前町長さんのお骨折りもあって、檮原町で萱を刈らしてもらうことになり、夫婦同伴でほとんど全戸が行って、1,000束集めて、ようやく屋根葺きができました。
 茶堂を作ったこの半年ほどは、片平の皆が大変せわしい思いをしました。それでも、山に行ってこの木はどうじゃと言う話をしながら伐採したり、萱を集めたりの作業を通じて、また作業の後必ず飲み会をすることで、互いのコミュニケーションがはかれ、地域のまとまりが、非常に強くなったように思います。また完成してからは、毎月21日に女性連中や老人クラブが、お大師さまの日ということで茶堂に集まって、話を楽しんでおります。そういう意味で、茶堂を再建したことは、過疎でやや沈んでおった片平に、活性化への中心となるシンボルになったのじゃなかろうかと思います。
 この片平区は、山腹(の緩斜面)にあって、幅1mほどの往還しかなく、昔は家を建てるにも組中が出て、瓦を全部手渡しで下の県道から運び、肥料や米麦も下から担うてあげておりました。私が28歳で区長になった時、これからは車が入らんとやっていけんなると、若い者2・3人で語ろうて、自動車道を作ろうと運動しましたが、年配の人にはだいぶ叱られ反対されました。道を広げるには数少ない耕地を削らんといかんことが、大問題じゃったわけです。後にはわかってもらいましたが。確かに、町内でもさらに山に入る地区は過疎化がひどいですが、片平は、夏は涼しいし緑も人情もあるしで、こんなに住みやすい所はありません。これからも茶堂を新たな中心として、この土地を守っていきたいと考えております。」

図表2-3-18 坐り念仏の内容

図表2-3-18 坐り念仏の内容


写真2-3-13 今年(平成5年)復活した片平茶堂

写真2-3-13 今年(平成5年)復活した片平茶堂

平成5年8月撮影