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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(3)山村を支える連帯の心と力

 以上のように、山村における伝統的な村落共同体の成り立ちと共同生活の営みについて久万町直瀬地区、上畑野川地区、柳谷村立野地区における具体的な共同生活と相互扶助の様々な姿をとおしてみてきた。これらの地域以外の村落生活においても、次の皆さんから共同生活の聞き取りをしてきたので、山村の共同生活における共通の営みと姿をまとめてみた。ただし、地域によっては呼び方や内容に若干の違いがあるので、その点あらかじめ断っておきたい。
 いずれにせよ、皆さんは、異口同者に「わたしたちが山村の厳しい自然条件の中で生活を営んで来れたのは、山村の伝統的な共同生活と相互扶助のお陰です。」と強調している。
 **さん(柳谷村大字西谷 名荷谷(みょうがだに) 明治43年生まれ 83歳)
 **さん(久万町大字露峰(つゆみね) 大正9年生まれ 73歳)
 **さん(小田町大字立石(たていし) 明治44年生まれ 82歳)
 **さん(小田町大字中川 大正8年生まれ 74歳)
 **さん(小田町大字寺村(てらむら) 大正11年生まれ 71歳)

 ア 部落や組の共同作業~「でぶ(出夫)」・「こうろく」・「もやい」・「回(まわ)り役」

 各組(地区・部落・集落・町内会)において各戸から出て無償で共同の奉仕作業にあたることを「でぶ」・「こうろく」・「もやい」・「回り役」などと言った。
 作業の内容は、道普請(ぶしん)・道つくり(昔の大通りにあたる往還(おうかん)や農道・集落内の生活道などの補修や草刈りであるが、今日はほとんど舗装したので草刈りなどが主である)・馬垣(馬が山道から落ちないように木柵を作った)・橋の修理・溝さらえ(灌漑溝の掃除)、組の共有地のカヤ場や共有林(入会山)の共同作業、神社・寺院・公民館・集会所などの手伝いや修繕など各組の共同生活について様々な分野に及んだ。
 個人に差し支えがあって「でぶ」に出られない場合は、地域によっては「しさん」とか「でぶそく」という負担金を徴集している所もあったが、今日では徴集しない所が増えてきた。また、組全体に「でぶ」(一斉でぶ)を割り当てる場合は無償奉仕で日当を支給しないが、当番を個別に割り当てた輪番の場合は日当を支給する所もある。

 イ 助け合いの共同作業

 (ア)「こうろく」・「もやい」による相互扶助

 「こうろく」・「もやい」は「でぶ」と同じように公共的な共同作業にも用いられるが、個人に関する助け合いにも用いられた。その代表例が、家普請(いえぶしん)・萱屋根替えの共同作業、病人やけがで人手不足の家の農作業の手伝い、病人を病院へ搬送する作業(かつては病人を戸板にかついで山道を病院へ運んだ)、火災・水害・葬式の手伝いなど村落生活の各方面にわたり、やはり無償による助け合いの共同作業であった。

 (イ)「いい」・「いいなし」・「手間替(てまが)え」の相互扶助

 個人的な手伝いや労力交換は、「いい」・「いいなし」・「いいもどし」・「手間替え」と呼ばれた。「いいを入れ、いいを返してもらう」(手伝ったら、手伝ってもらう)という助け合いを意味した。組内や親戚同士の労力交換が中心であったが、組外とも「いい」を行った。
 「いい」は田植え、取り入れをはじめとする農作業などの農繁期はもちろんのこと、農閑期の肥え草刈り・肥え草下ろし・莚(むしろ)打ち・こうぞむし・とうきびはぎなど山村における共同作業の各分野に及んだ。また、5・6人から十数人で行う個人的な農作業や森林作業などの共同作業を「もやい」(小田町)とか「しゅう(衆)」(上直瀬)という所もある。
 このような農村における「いい」は、江戸時代から全国的に「ゆい」(結)と呼ばれたが、上浮穴地方はじめ県下各地では「いい」・「いいなし」となまって使われている場合が多い。

 ウ 各種の講による付き合いと助け合い

 村の共同生活における付き合いと助け合いにおいて、大きな役割を果たしたものに講がある。講を大別すると、民間信仰をよりどころとした講と金融や物資の融通を図る経済的な講がある。上浮穴地方において行われていた講をまとめると、次のようになる。

 (ア) 経済的な講の営み

 金融的、経済的な講である頼母子講としては、(1)の力の「萱屋根農家と共同生活の営み」で述べたように萱講・瓦講(屋根替え講)・米講(こめこう)・ぼたもち講(米頼母子)・馬講(うまこう)・えびす講・親なし講・婦人頼母子などが金銭や現物、労力によって行われていた。これらの頼母子講は村落生活における経済的な相互扶助の役割を果たしていたが、山村における農協を中心とした金融制度の発達や経済生活・生活様式の変化により、今日では一部の個人的グループを除いてほとんど行われなくなった。

 (イ)信仰的な講の営み

 民間信仰の講は、(1)の久万町、(2)の柳谷村立野の伝統行事で述べたように、火をつかさどる神をまつる愛宕神社信仰の「愛宕講」はじめ、秋葉講(高知県高岡郡仁淀村)・伊勢講・金比羅講・大師講・観音講・薬師講・多賀(たが)講(松山市新立、喜多郡長浜町八多喜)・石鎚講(お山講)・谷上(たがみ)講(伊予市谷上山宝珠寺)などがある。これらの講は、講のグループの代表の数人が輪番で代参し、お札をもらってくる講や代参を伴わず輪番で当屋(講番)に集まり飲食をする講(愛宕講・観音講・薬師講・日待講・月待講・念仏講・地蔵講など)であった。これらの講は、漸次減少しつつあるものの今日の村落の共同生活における信仰的、社交的、集団的な付き合いと助け合いのよりどころとなっている地域が少なくない。

 (ウ)民間信仰における講の発達

 民俗学者の宮本常一は、『村の成りたち』の中で全国的な民間信仰の講の発達について、次のように述べている。「民間に見られた講は念仏講や地蔵講のみではなかった。寺院を中心にして発達したものに大般若講会がある。大般若経の写本は平安時代からのものがあり、しかも今日地方寺院にかなりの量の大般若経が残されていることから、この経に寄せた民衆の畏敬の念は大きかったと思う。農民にとっては現世利益をもたらす経文であった。病をなおし、災難をふせいでくれる威力をもつものと信じられていた。(⑥)」
 また、山村の人々が、お堂の寄り合いなどにおいて般若心経を熱心に唱えられることについては、「むずかしい経文は農民たちには無縁に近かったが、大般若経の趣旨をダイジェストした般若心経はそれほど長いものではないために、念仏とともに民衆に早くから暗唱せられるようになり、今日寺院の講会などのおりには必ずといっていいほどとなえられており、時には神社においてとなえている例にしばしばぶつかっている。しかもこの経文暗唱の習俗は浄土真宗の信者をのぞいては全国にわたっているといっていい。それは教義がわかってのことではなく、それが招福除災の呪言としての威力をもつものと考えたからであり、病人の平癒祈願のときなど、大ぜいの人が集まって千願心経をとなえる習俗は戦前にはいたるところで見られた。(⑥)」と述べているが、上浮穴郡の各村落、各地区のお堂において伝統的に唱えられている般若心経は、全国的にも村落共同体の人々の精神的なよりどころであったことがわかる。
 代参講については「代参講は伊勢講だけではなかった。そのおもなものをあげてみると羽黒講、古峰原講、三峰講、大山講、富士講、御嶽講、行者講、(熊野講、山上講)、住吉講、天神講、稲荷講、出雲講、金比羅講、大師講などがある。いずれも特定の社寺を信仰するあつまりで、それぞれの村の有志が仲間をつくって交代で代参するものである。羽黒、富士、天神、熊野などを除いては近世にはじめられたものが多かった。
 ただ代参するばかりでなく、日を定めて頭屋に集まり、信仰する神仏の掛け軸などかけてそのまえで礼拝し、終わって軽い夜食が出るのが普通であった。私は全国各地でずいぶん多くの講に出席してみたが、そのやり方はほとんどかわりがなかった。そしてしかもこの代参講が講の中では種類も数も一番多かったのである。そしてそれは信仰、親睦、経済団体でもあった。(⑥)」と上浮穴郡にも多い代参講の全国的な傾向と役割について述べている。