データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)助産婦一筋 半世紀

  **さん(小田町中川 大正11年生まれ 71歳)

 ア 父に勧められ、助産婦の資格もついでに

 小田町が他に誇るものの中から、とりあえず二つあげてみる。一つは、小田町役場庁舎前に建つ丸井千年(まるいちとし)翁の胸像である(写真3-2-6参照)。小田町出身で、生涯をへき地医療一筋に専心し、地域の人々から「いのちの神さま」と慕われ、小田町名誉町民第一号に選ばれた、小田町を代表する人物である(④)。そしてもう一つ。小田町を代表する名木「乳出の大イチョウ」(県指定天然記念物)は、町の中心部から小田川に沿って東へ進み、途中久万へ抜ける国道380号線を左に分岐した後もゆるやかな坂をなお3kmほど上り続けたところ、中川の三嶋(みしま)神社にある。イチョウとしては県下第一の巨樹であり、神社ができた和銅5年(712年)に植えられたと言われ、樹齢は1,200年を超えると推定される。根まわり15m、高さは45mで、幹のあちこちから長い気根が垂れ下がっている。この気根の皮を煎(せん)じて飲むと乳の出がよくなるという言い伝えがある(⑤)。
 **さんが、今なお現役の助産婦として活躍している背景には、この丸井千年翁と「乳出の大イチョウ」を欠かすことはできない。
 **さんは、参川(さんがわ)村(のちに合併して小田町)中川の「乳出の大イチョウ」の近くで生まれ育った。彼女の父は、先生か看護婦になるようにと願い、進学を勧めていたそうだ。しかし、尋常高等小学校高等科の修学旅行で松山に行き、自由時間の買い物で道に迷ってしまい、「山の子ですから『とても松山では住めない。進学なんてとても…』と思った。」という。そんな彼女の憧(あこが)れは、小田で開業していた丸井医院の薬局であった。薬を調合している姿を窓越しに見てひかれていたという彼女に、幸運にも校長先生から「よかったら、丸井先生のところで働いてみないか。」と声がかかった。
 丸井医院で働くようになってからのことを、**さんは次のように語る。

 15歳の見習いの少女には、なかなか薬は作らせてもらえません。朝5時半に起きて掃除、患者さんの方も手伝わしてもらうけれど、女中さんと一緒にお炊事も。2年くらいして、薬局の方が結婚されてやめたので、やっと薬のほうも、注射もさせてもらえるようになりました。
 私の父は先々読む人でした。一生懸命、丸4年が過ぎたときに、父から「丸井先生とこのおしあげばっかりしよったんではいかん。免状取らないかん。」と言われました。ちょうど兄が兵隊へ行ったからということで退職し、松山の三番町にあった産婆看護学校に通いました。
 丸井先生のところに勤めていたおかげで、実地の経験があるものは1年で検定試験が受けられたんです。私は、助産婦はいらんと思たんですけどね、父が「歳(とし)取ったごろにはいいから、取っとけ取っとけ。」言うんで、おかげで両方の資格を1年で取りました。数えの二十の時です。
 そのころは若かったので、希望に燃えていましたから、地平線のかなたへでも出掛ける勢いでした。ちょうどいとこが行ってましたから、満州(現在の中国東北部)へ憧(あこが)れて行ったんですよ。満州製鉄の病院に産婦人科の看護婦として就職したんです。満州の社宅いうたら若夫婦ばっかりでしょ。「助産婦の免状持ってる方がいないから、助産婦として分院に行ってくれ。」と言われて、ように助産婦にされてしまったんです。
 父との約束で結婚はしないつもりでした。しかし終戦になり、会社から「独身者の安全確保には不安があるので、適当な人を見つけて結婚するように」との指示がありましたので、父との約束があったんですが、生命には替えられないということで、群馬県出身の**と結婚して、いっしょに引き上げて帰りました。
 群馬の**家では、息子が帰ったときに何もなくなったんではいけないので、本人の知らないうちに、近所の娘さんと一応籍が入れられていたんです。というのは、戦後、嫁でももらって入籍しておかないと土地を没収されたんです。当然夫に対して「**に群馬の方を跡を継いでほしい。」と言われたそうです。私の父も「生命を助けてくれた恩人なのだから、**家の意向を尊重するように…。」と言いましたが、夫と私はいっしょに野宿したりして帰った仲ですから、結局、群馬の親を説得して二人でこちらに戻ってきました。

 イ 「**助産所」開業

 波乱の一時期を過ごして郷里の参川村中川に戻った**さん夫婦の生活がスタートしたのは昭和22年であった。**さんは参川村役場に就職し、**さんは助産所を開業した。

 私の実家は、中川でも亀が谷という上の方で、道路がなくて歩かないといけなかったんです。父が、「助産婦をするのには、こんな不便なとこではいけない。」と言ってイチョウの木の近くの家を貸してもらうように交渉してくれました。1、2年したときに「そこを出るか、買うかしてくれ。」と言われたんです。主人は「家はいらない。」と言ったけど、母が「やっぱり家がないのはつらいから。」って言うんでねえ。当時の夫の月給が3,000円のとき、4万円で買いました。交通の便利がいい所で、今でもバスの停留所のすぐ前です(写真3-2-7参照)。

 「**助産所」の看板を掲げたものの、そこは山村のこと、毎日毎日お産があるわけではない。「昔は、何週間したら検診に来るということはありませんでした。お産言うて来たら行き、役場の予防注射の手伝いにも行きよりました。ですから、普段は、米が5俵くらいできる田を父から分けてもらい、自分ちで食べるくらいのものを作っていました。今のように電話もなかったけど、だれか来られたら、田んぼに行とっても、もんてきますしね。」と語る。

 お産に必要な道具一式の入った鞄(かばん)を「お産セット」と言っていました。帰ってすぐの時は役場にあったのを借りたのですが、父が「その道具ぐらい買えばいい。」ってね、買ってくれました。1回のお産と1週間の沐(もく)浴で7円くらいもらっていたころですが、8,000円くらいしました。その「お産セット」を持って自転車で行くのです。自転車で行けるところはまだいいので、歩いて行かないけなかったところは大変でした。

 ウ 山のお産

 お産はほとんど自宅でやってましたが、みんながみんな助産婦を雇うんではないんですよ。おうちで黙って自分でする人もありました。「後産が出ないので、診に来てくれ。」言われて出掛けて行くこともありましたが。資格はないけど「取り上げばあさん」いうて器用な人があったらそういう人が手伝ってくれたりね。男はあんまり立ち会う人はいませんでしたが、中には「わしが、皆取り上げた。」という人もいました。
 長男の嫁というのは大事にされたんですが、次男坊の嫁とか戦後引き上げて来た人の中には、お座敷があっても座敷になんか入れてもらえないで、尾垂(おだれ)でねえ、お月さんやお星さんが見えるところでお産される方も多かったんですよ。嫁ぎ先の親がいても見てあげんお母さんもいて、洗濯なんかも自分でしてました。中には「あくる日から田植えしたよ。」なんて例外もありますが、今と同じで1週間くらいは静かにしていましたよ。でも、産後の肥立ちが悪くてダメという人は、そんなにはいませんでした。
 お乳が出ないときでも、気のきいた人は山羊(やぎ)を飼ってその乳をしぼるとか。牛乳なんて、そう手にはいる時代じゃなかったですから。それもできない人は、家族みんなの栄養を取られるようなことですが、麦飯やごはんを炊くときの汁を多くして、ぐつぐつ沸きよるときに取ってお湯でのばして飲ませるんです。赤ちゃんは、それでもけっこう育ちました。
 終戦後の食糧難の時期で、普段麦ごはんを食べている家でも、出産の日には「初(うぶ)の飯(めし)」を炊いて、お米のごはんを食べさせてもらいました。ちゃんとお米を蓄えていたんでしょうが、20年間を通じて1軒だけ、お寺のお坊さんとこだけはお麦ごはんで、すぐ恐縮されました。昔の風習で、「やっぱりえくぼつけちゃらんといかん。」いうて箸を立てて跡を付けたり、へその緒は、「親子の絆(きずな)の印。これは命の綱で、病気のひどいときに煎じて飲ましたら、生き戻る。」なんて言ってました。
 「お産は一貫から百貫まである。」と言って、人によって本当に軽い人もいれば、逆にとても大変な人がいます。呼ばれてから行くと、時たま間に合わんで、もんぺの中に赤ちゃんお産したまま、早く脱げばいいのに、脱ぐ間がない人があったりしました。また、少し離れた掛橋(かけはし)というところに呼ばれたときは、タクシーに乗って、2円50銭だか3円だかかかって、私が着いたら「もうできたけん、かまいません。」て言われて、その時はタクシー代だけは払ってもらわんと、私も…。
 逆に、長い人は、子宮口が開いてから3日くらいかかる人もいます。「卵の生を飲んだら元気が付く」とかいうて、よく生卵を飲ましよりました。そんなときは毎日通ってみるのですが、立石(たていし)の人の時は、夜中の3時ころ起きて1時間くらいかけて行きました。途中ですれ違ったのは、木材を松山へ運び出すトラック1台だけの暗い山道でした。
 寒い時期のお産も大変でしたよ。「ぬくうにしなさい、ぬくうにしなさい。」言うて、炭火をおこしたくらいではなかなかぬくもらないし、こたついうても足つっこんでいっぱい着て座りよりました。お産の間は、お母さんも気張っているのでそんなに寒く感じなかったんでしょうか。赤ちゃんも「産湯へ入れるまでは風邪ひかんもんや。」と言うてましたから。沐浴している間にお湯がぬるくなるんで、別にお湯かけとかないかんのですよ。今では考えられませんが、それでも一生懸命でした。昔はみんな強かったです。
 冬のお産と言えば、これも立石での話ですが、行くときは行けたけど、小田町始まって以来の大雪ということで、歩いて帰らにゃいかず困りました。若くて元気やったからやれたと思いますよ。
 時々でしたが、順調でないお産もありました。今のように救急車がありませんでしたから、タクシーを雇って松山へ連れて行かにゃいけん場合は、警察へ頼みましてね。パトカーに先導してもらうんで、タクシーと出会うところまで来てもらって、広田経由で連れて行きました。少しでも近い方がいいっていうんで、途中の砥部や森松には大きな病院がなかったので、柳井町の病院まで連れて行っていました。

 エ 貧しさゆえに

 お産に行っても、柿のずく(=熟しきった状態のもの)を二つ三つもらっただけで、代金をもらえない人もいました。また、しんどいお産の人の中には、「もうどうしても頑張れんのじゃったらお医者さんに行きましょう。」って言うと、やっぱりまあお金のことが頭に浮かぶんでしょうか、「もうちょっと頑張る。」言うて、我慢した方もいます。
 田舎は難しいんですよ。親戚(せき)じゅうが寄って意見がまとまらんで困るんです。先生が「こら早う松山へ行かないけん。」「早く決めんと、それ、治療ができんよ。」言うても、「なりゃあ(できるなら)ここで産ましてもろうた方がええ。」言うて決まらんのですよ。このときは、お母さんの意志は関係ありませんでした。
 一人だけ亡くなりました。うちの玄関で。それはもう、30分も40分も歩いて行かないけん山の上の方で、電灯もないところですから、カンチョロ(=カンテラ)で照らして行きました。隣の家といっても遠いんですが、そこへお湯を取りに行ってもらっている間に痙攣(けいれん)を起こし始めましてね。おじいちゃんには丸井先生の所へ「うちの家まで連れて降りるから来てください。」と言いに行ってもらい、それから急いで戸板に乗せて下へ連れて降りました。うちの玄関まで着くとそこで子癇(しかん)(=妊娠中毒症の一種)を起こして、丸井先生が来て注射もしてくれましたが、「これはもう、専門医に行かないけんよ。」と言うんです。
 御主人に「行きます?」言うのに、哀れですよーっ。その人はよく借金をしてる方でねえ、「タクシー雇う金がないから、だれかに借りに行く。」言うてね、「あとから払うんでもいいから早くしてねっ。」と言うのに、奥さんを玄関に置いたまま帰ってこないんですよ。そうしよるうちに、痙攣(けいれん)起こしたまま、意識ないのにお産しました。赤ちゃんの方は元気なんですよ。ほいで、「早く行かんとこれ、かあちゃんの命が危ないよ。」って言うのに、ようにうちの表で亡くなってしまいました。もう本当に、これが一番怖かったです。あとで聞いてみると、前からタンパクが出よったので時々は医者に通っていたらしいんですが、タクシー代がないくらいですからもちろん入院するわけにもいかなかったようです。

 オ 半世紀におよぶ助産婦生活をふりかえって

 **さん自身の出産は、役場が近かったので、保健婦さんに取り上げてもらったそうだ。実際に自分で子供を産むまでは、「自分は何もかもわかる。」と思っていたそうだが、それは間違いで「学問的にはわかった気がしても、絶対、お産してないとわからんことがいっぱいあることに気づいた。」と言う。そして、途中で「学校の養護教諭になってくれんか。」と言われたときも、「助産婦の方が人助けができるかな。」と思って、助産婦の道を歩み続けた。
 昭和40年に町立の母子センターができ、設備の整ったところでお産ができるようになったので、20年間にわたる助産所を閉じて、母子センターを手伝うようになり、翌年からは、小田町にできた済生会病院に勤務し、最後は婦長職を務めて62歳で退職した。退職して、失業保険をもらっているころ、松山の産婦人科にパートで来ないかと誘われ、今でも週に何日かは現役の助産婦として活躍している。
 およそ半世紀におよぶ助産婦生活をふりかえって、**さんは次のように締めくくってくれた。

 若いころ、夜お産に出かけようとすると、主人は「子供がかわいそうだから、夜まで行くな。」って言いましたが、私は「産まれてくる子供はみんなかわいいから行く。」と言って出掛けていました。そんな私を見守ってくれたから、こうして今日まで働くことができたのだと感謝しています。夫は、よそから来た人間ですから、関東は言葉も違いますしねえ。しばらくは苦労したようで、本当にかわいそうでしたが、最後は皆さんからも信頼され、私以上に小田町の人間になりまして、教育長も務めさせてもらいました。
 あのころに、もうちょっと助けてあげればよかったのになあと思う人もいますけどねえ。みんな一時は苦労していましたけど、手紙をいただいたり、風の便りに聞きますと、みんな幸せになっています。
 1,000人までは、一人一人の記録もとっていたんですが、病院に行くようになってからあまり付けていません。最近は、おっぱいの吸い方で、その赤ちゃんの人生までわかるように感じるのが、ちょっと怖いんですが…。それでも、自分が取り上げた子が父や母になって、今勤めている病院に来てくれたり、町で声かけてくれたり。47年前に取り上げた子が、網走(あばしり)で中学校の教頭先生をしていて、「おばちゃんのこと、今でも覚えとる。」言うんで、こないだ北海道旅行に行ったときに会ってきました。本当に助産婦を続けてよかったと思います。
 若い人には若い人の生活があるし、年寄りは年寄りで、話し相手が欲しいもんです。だから、今の病院を辞めたら、高齢者の福祉施設にボランティアに行きたいなあと考えています。

 **さんが今なお現役で活躍しているのは、きっとこの世の中で最も若い生命、「赤ちゃん」と、半世紀にわたって接し続けてきたからであろう。それにしても、人生の最初の場面で**さんに取り上げられて誕生した生命が、次の世代へと生命のバトンをつなぐとき、彼女の手に再び託されるという、その仕事のスケールの大きさに感動すると共に、**さんの生き方から、生命の尊さというものをあらためて考えさせられた。

写真3-2-6 丸井千年翁胸像(小田町庁舎前)

写真3-2-6 丸井千年翁胸像(小田町庁舎前)

平成5年12月撮影

写真3-2-7 乳出の大イチョウ付近

写真3-2-7 乳出の大イチョウ付近

平成5年12月撮影