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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

1 えひめの衣-伊予絣-

 伊予絣(いよがすり)は、享和(きょうわ)年間(1801~04年)に今出(いまず)(現松山(まつやま)市西垣生(にしはぶ)町)の鍵谷(かぎや)カナ(1782~1864年)がはじめて製織(せいしょく)したことによって始まるといわれる。その創始については諸説あるが、カナが金比羅(こんぴら)参りの船中において久留米商人が飛白(かすり)を着ているのを見て感じ入り、帰郷後に考案したとの説(松山市西垣生町、三島神社境内の「飛白織工労姫命(かすりおりたくみいさおひめのみこと)」の碑文)や、わら屋根のふき替えの際、押し竹を縛った跡が美しいまだら模様になっているのを見て、これを織物に応用したとの説(松山市西垣生町、鍵谷カナ嫗頌功(おうなしょうこう)記念堂の碑文)などが伝えられている。
 明治10年(1877年)前後までは当時の産地であった今出の名をとって今出絣と呼ばれていたが、このころから産額が増加して他県に広まり始め、同20年ころより伊予絣としてその名を全国に知られるようになった。
 日露戦争終結の明治38年(1905年)、伊予絣の生産ははじめて200万反(たん)を超え、翌39年には249万反となり、絣生産で全国一となった。ここに、久留米(くるめ)絣・備後(びんご)絣と並んで、伊予絣は日本三大絣の地位を築き上げたのである。その後、明治末から大正の初めにかけては経済界の不況もあって低迷したが、大正5年(1916年)から同10年までは、第一次世界大戦の影響で我が国の産業経済界がかつてない発展をするなか、伊予絣も空前絶後の発展を遂(と)げた。とりわけ、価格の高騰(こうとう)が好況を支えた。生産高は、大正8年(1919年)から昭和4年(1929年)まで11年間にわたって毎年200万反を超え、なかでも大正12年(1923年)には270万反余の最高生産記録を達成し、その後も戦前は、ほぼ全国一の生産高を誇っていた。
 もともと、農家の子女の副業として普及した伊予絣は、生産が拡大しても農家の賃織(ちんおり)に依存していた。織元が所有する織機を労働力の安い農漁村に貸して、賃織させる形態である。『えひめ、その装いとくらし』の中で小さいときから絣織りの手伝いをして育った松山市西垣生町の**さん(昭和16年生まれ)は、機織りについて次のように語っている。
 「祖母と母が農業の手伝いをしながら、足踏みの機(はた)を織って生活をしていたのです。私も手伝いましたが機に足が届かないから、かせを繰(く)ったり糸を取ったりしていたのです。そのころは垣生の今出には20軒以上の絣工場があって、機織りが盛んでした。道を通るたびに機の音が聞こえていました。中学校に入ってから足踏みで織り始めました。足踏みは母が織るのを見よう見まねでしたのです。冬の寒いころはしもやけが出来て糸が手にくいこんだり、手をはさみで切ったり針で突いたりしてつらかったですよ。みんなが遊んでいるのに、手伝わないといけないので、苦労しました。そのころは、半纏(はんてん)やでんち(袖(そで)無し半纏)とか着物、布団、座布団など家の中は絣だらけでした。参観日には、お母さんたちは絣の着物で学校へ来ていました。そういえば昔、垣生の小学生の制服が絣のときがあったということを聞いたことがあります。」
 戦時中は、綿花の輸入が制限され、戦争の激化とともに木綿(もめん)業界が衰退し生産が途絶えたが、戦後に生産が再開され、昭和27年(1952年)には、糸へん景気の影響もあり202万反を生産した。
 昭和30年代以降、化学繊維の台頭、洋装化、農業人口の減少、作業着の変化などの影響を受け、伊予絣の需要は年々減少した。生産高は、昭和40年(1965年)には100万反、同45年には50万反、同54年には10万反をそれぞれ割り込んでいくなど激減した。現在は、往時の華(はな)やかな面影(おもかげ)はないが、伊予かすり会館や垣生公民館、鍵谷カナ媼頌功会などが、伝統的特産品として技術の保存・継承にあたっている。