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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

6 えひめの地場・伝統産業-伊予手漉き和紙-

 愛媛県の手漉(てす)き和紙出荷額は、「平成20年度(2008年度)工業統計表(経済産業省)」によれば、福井県、京都府についで全国第3位であり、全国の11%を占めている。愛媛県には、大洲(おおず)和紙(内子(うちこ)町五十崎(いかざき))や泉貨(せんか)紙(西予(せいよ)市野村(のむら))、周桑(しゅうそう)手漉き和紙(旧東予(とうよ)市)、伊予手漉き和紙(四国中央(しこくちゅうおう)市)などがある。現在、生産額が多いのは四国中央市の伊予手漉き和紙だが、和紙の産地としての歴史は他の産地に比べて新しい。
 伊予手漉き和紙の歴史は、およそ250年前の宝暦(ほうれき)年間(1751~1763年)までさかのぼり、はじめは藩から特別な保護を受けることもなく、数軒が嶺南(れいなん)(法皇(ほうおう)山脈以南の銅山川流域)の奥地の山谷で、自生のコウゾやミツマタを原料として紙を漉いていたといわれている。慶応(けいおう)年間(1865~1867年)から明治時代にかけて、薦田篤平(こもだとくへい)など先覚的指導者が現れ、農家の副業として製紙の奨励普及に努め、今日の製紙の草創期の基礎を築いた。
 明治44年(1911年)には製紙戸数762戸を数え、手漉き和紙の黄金時代となった。また、時代の流れとともに、機械化が進み、篠原朔太郎(しのはらさくたろう)がビーター(叩解機(こうかいき))の改良と回転式の三角乾燥機を発明して、和紙製造に機械動力を利用する画期的な技術改善を行い、ますます発展への道が開かれることとなった。大正時代に入って、スウェーデン製の抄紙機(しょうしき)(紙漉き機)が導入されたことが契機となって急速に機械化が進み、機械漉き製紙工場が次第に増えた。戦後、紙の需要増加を背景として機械漉き和紙の生産が拡大すると、それにともなって手漉き和紙の生産は衰退し、現在(平成22年)は、4軒を残すのみとなっている。
 『えひめ、その住まいとくらし』の中で、四国中央市金生(きんせい)町で手漉き和紙工場を営む**さん(昭和22年生まれ)は、手漉き和紙の仕事について次のように語っている。
 「うちでは、昔から書道半紙を製造しています。この仕事を始めたのは私の祖父(明治22年生まれ)で、手漉き職人としてよそで勤めた後、独立したと聞いています。下分(しもぶん)に手漉き和紙の工場が多いのは地下水が豊富だからです。ここの地下水は軟水(カルシウムやマグネシウムなどをあまり含まない水)で紙づくりに適しています。工場の従業員は、多いときで15、16人いましたが、現在は7人になりました。私の父の時代には、住み込みの従業員もいたらしいのですが、それは戦前(昭和初期)の話です。戦時中は風船爆弾(第二次世界大戦中に日本がアメリカ本土の攻撃のため使用した和紙製の気球に爆弾を搭載した兵器)の原料となった気球紙も作っていたと聞いています。手漉き和紙工場は昭和30年代には100軒を超えていましたが(昭和34年119軒)、現在(平成17年)は7軒になりました。
 私がこの世界に入ったとき(昭和41年)は、下ごしらえ(原料を作ること)から覚えました。紙漉きを始めることができるのは2~3年たってからで、紙を漉き始めても一人前になるまでにはさらに2~3年かかります。紙漉きには体力が必要なため主に男性の仕事で、女性は主に乾燥の仕事をします。給料は紙漉きのほうが乾燥より5:3の割合でよいため、昔は体力のある女性が紙漉きをやったこともありました。
 紙漉きは気温によって製品の品質が異なります。水温と気温の差が余りない冬場のほうがよく、『寒漉き』といって、1月、2月に良質の紙ができます。冬場の方が原料が腐りにくく、のりもよくきくからです。製品は地元の問屋を通じて、関東を中心に全国に販売されています。」
 現在、四国中央市は、手漉き和紙の伝統を受け継いで開発研究を重ね、製紙業・紙加工業において日本屈指の生産量を誇り、紙製品の出荷額は全国一である。
 また、「紙の町」四国中央市を盛り上げようと、県立三島高等学校書道部員が地域のイベントやショッピングセンターで始めた書道パフォーマンスは、次第に大きな反響を呼び、平成20年には第1回「書道パフォーマンス甲子園」が四国中央市を舞台として開催された。以来、毎年四国中央市はその開催地となっている。今年(平成22年)は、三島高校書道部の第1回「書道パフォーマンス甲子園」開催までの活動が、「書道ガールズ!!わたしたちの甲子園」として映画化され、四国中央市は、「紙の町」としてさらに注目を集めている。