データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

11 えひめの町の生活-芝居・紙芝居-

 昭和の時代、町村役場のある集落は、その地域の「町(まち)」であった。町には商店街があり、周辺に住む人々が買物や娯楽のために集まり、にぎわいをみせていた。ここでは、伊予(いよ)郡双海(ふたみ)町(現伊予市)の上灘灘町(かみなだなだまち)の芝居(しばい)小屋と、子どもたちが夢中になっていた紙芝居を紹介する。『えひめ、昭和の街かど』の中で、上灘灘町に住んでいた**さん(昭和3年生まれ)と**さん(昭和5年生まれ)は次のように語る。
 「五丁目には劇や映画を見ることができる芝居小屋がありました。昭和10年(1935年)ごろは寿座(ことぶきざ)といい、回り舞台や花道がありました。私が小学生の時、ここで学芸会をしたことを憶(おぼ)えています。戦後になって寿座は海栄座(かいえいざ)と改称され、芸能人では、川崎弘子や福田蘭童(らんどう)らが来ました。
 昭和20年代の中ごろのことですが、上灘町文化協会が海栄座で演劇をたびたびやっていました。五丁目の人たちは、みんなで『宮崎劇団』を作っていました。宮崎というのは、五丁目あたりの古い地名です。戦後、大陸から引き揚(あ)げてきた人が多くいたので劇団を組むことができたのです。この劇団では『父帰る』、『湖畔(こはん)の宿』、『獅子(しし)』などを演じていました。劇は20日前後練習していましたが、『父帰る』の時は10日くらいでやりました。セリフを覚えなければならないので毎日一生懸命やりました。衣装や舞台セットなどもみな手作りでした。そのころは娯楽がなかったので、地域の人たちもそれを楽しみにしていました。
 海栄座では、芝居と映画とを合わせた連鎖劇もありました。連鎖劇は、劇の途中に映画をしたり、あるいは映画の途中に劇を上演したりするものでした。芝居は地元の人がするのではなく、映画と一緒に芸人がやっていました。映画が途中で終って、その続きを芸人が上演するのです。画面に合わせて話をする弁士も五丁目に住んでいました。だいたい時代劇が多かったように思います。
 戦後の人々は娯楽に飢えていました。映画や演劇が上演される日、劇場はいつも満杯の状態でした。牛の峯(みね)に近い東越(とうごえ)や高岸(たかぎし)(いずれも双海町内の地名)の人々は、テーラー(耕耘機(こううんき))で引っ張る台車に家族や知り合いを乗せて劇場へ行っていました。当時まだ舗装(ほそう)されていない灘町の道路を、10数台のテーラーが大きな音をたてて劇場に向う様子は、驚きでした。」
 また、町内では紙芝居が行われ、子供たちの人気を集めていた。『えひめ、昭和の街かど』の中で、**さん(大正15年生まれ)・**さん(昭和7年生まれ)や**さん(昭和22年生まれ)が紙芝居について話す。
 「昭和30年代前半には、紙芝居が町内で行われていました。紙芝居が来た時は、子どもたちはみんな走って行きました。紙芝居の前に練(ね)り飴(あめ)を売ってくれます。お金を持ってきた子が4、5人、飴を買っていました。飴を売り終わると紙芝居をしてくれるのです。飴を買わないで、ただで紙芝居を見ている子もいました。」
 紙芝居をしていたのは、戦争で疎開してきて上灘五丁目に住んでいた人だったという。写真には、幼い子をおぶった女の子も写っている。家にテレビのない時代、紙芝居は子どもたちの大きな楽しみであった。