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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)岩松川に魚を追った日々

 **さん(北宇和郡津島町岩渕 大正13年生まれ 70歳)
 **さん(北宇和郡津島町高田 昭和3年生まれ 66歳)
 **さん(宇和島市朝日町   昭和6年生まれ 63歳)
 **さん(北宇和郡津島町山財 昭和9年生まれ 60歳)

 ア 豊かな川、岩松川

 ** 岩松川は、魚の豊富な川だった。
    4月ころ大雨が降ると、たくさんのフナが、支流の細い川から田んぼに産卵のため上ってきた。それをスイデ(魚を取
   る網)で一網打尽にした。大きな桑かごがすぐ一杯になった。
    ナマズも、麦刈りが終わったころの大雨の時に、やはり産卵のため小さな川から麦畑の溝に上ってきた。大人の握りこ
   ぶしよりも大きいくらいのナマズが、群れをなしてドンドン小川を上っていく様は、壮観だった。

 ** ナマズは、よく食べた。カバ焼きにすると、ウナギよりも淡泊な味でうまかった。味噌(みそ)炊きにすると、骨まで柔
   らかくなった。ナマズは、味噌炊きが一番だと思う。

 ** フナは、串(くし)に差して囲炉裏(いろり)の周囲で乾燥させ、それをクツクツと炊くと、全体が柔らかくなって、おい
   しく食べられた。当時は、たいていの家に囲炉裏があったので、ワラすぼ(フラを束ねたもの)に串をさして乾燥させて
   いた。

 ** お茶といっしょに、焼いたフナを炊くと、フナの臭みがとれておいしかった。

 ** ハヤも、キンコバヤという小さいものから、アカチバという虹色をした、ハヤの王様みたいなものまでたくさんいた。
   アカチバは、かれこれ20cm近くにもなる大きなもので、口の方は黒々としていて見た目には立派だったが、食べるの
   は、キンコバヤの方がおいしかった。

 ** 冬の寒い時期、ハヤは石の下でじっとしているので、ハヤが隠れていそうな石に大かな石を投げつけると、衝撃でハヤ
   が浮かび上がることがあった。たくさん取れたわけではないが、冬のハヤは、焼いても煮てもおいしかった。

 ** 当時は、エビもたくさんいた。カイツケという糠(ぬか)に味噌を混ぜて団子にしたものを、石垣の根元に沈めておく
   と、エビが出てくるので、それを網ですくって取った。

 ** 井堰(いせき)の石組の中にもエビがたくさんこもっていたので、やはりカイツケをまいて、エビがぞくぞくと出てきた
   ところを、エビスイデ(エビ専用の玉網)ですくった。エビは逃げるときは後に下がるので、エビの尻の方からスイデを
   もっていくのが、こつだった。大きいものは、体長が10cm以上もあった。ハサミの長いのをヤデハリエビ(ヤデ、すな
   わち、腕を張ったエビという意味。テナガエビのことではないか。)、ハサミの太くて大きいのをスモトリエビ(相撲取
   りのように腕が太いエビという意味。)とよんでいた。ほかにも大小さまざまなエビがいた。

 イ アユの効用

 ** 岩松川には、アユもたくさんいた。学校の行き帰りに石を投げたら、2、3匹は浮かび上がってきたほどだ。

 ** 子供のころにフルチンで泳いでいたら、アユがチンチンにまつわりついてくるほどだった。だまって川に立って、足の
   ところに手をかまえていたら、いくらでもつかまえることができた。

 ** アユは、よく淵に潜ってヤスで突いた。水中で見ると、ちょうど水族館でアジやイワシの遊泳ぶりを見るように、透明
   な水の中をアユが無数に泳いでいるのが見えて、たいへんきれいだった。一度潜ると、2匹や3匹は簡単に取れた。

 ** 浅瀬では、竹の先に短いひもをくくり、それに針をつけて、水中メガネでのぞきながら、泳いでいるアユをひっかけた
   りもした。とにかく、簡単にたくさんのアユが取れた。

 ** 川に行くときは、ごはんだけを持っていき、おかずは、取ったアユをその場で酢味噌をつけて頭から食べた。これが天
   下一品おいしかった。

 ** 昔は、瘍(よう)(できもの)がよくできたが、アユの内臓をつけると、効果てき面で、瘍の根まで吸いだしてすぐによ
   くなった。今考えると、アユが食べるコケの中に、化膿(かのう)菌に対する抑制剤が入っており、それを凝縮したのが内
   臓だったのではないかと思う。アユには、グルメと薬効という二つの効用があったように思う。

 ウ ウナギ取り

 ** ウナギ釣りもよくやった。
    田植え前になると、岩渕地区では、井手ごしらえというのがあった。前日、触れ役が法螺(ほら)貝を吹いて、翌日の井
   手ごしらえを予告し、翌日、みんなが出て井手をつくった。井手は、松の木を打ち込んで、それにカシなどの細い木を渡
   し、そこに石を詰めてつくるわけだが、その石の間にウナギがたくさんこもるので、そこでウナギをよく釣った。

 ** 麻を自分でよって糸を作り、それにウナギ針をつけて、ミミズを餌にして篠竹(しのだけ)の細いので、石垣など、ウナ
   ギのおりそうな穴に入れてよく釣った。
    また、わたしたちは「タンポロ」とよんでいたが、いわゆる「地獄」もよく仕掛けた。ウナギが一度入ったら二度と出
   られないような仕掛けのある、細長い竹のかごに餌を入れて、夕方川につけておき、翌朝取りに行く。実力のある者は、
   4、5本つけるが、わたしなどは2本くらいしかつけられなかった。先輩が、「おまえは、ここへつけや。」というよう
   に、指導してくれた。朝行くと、たまにウナギが入っており、そんな日は、一日中うれしくてたまらなかった。

 ** 「夜田んぼ」もよくやった。
    田ごしらえするころの水田にはウナギがたくさん入っており、夜、明かりをつけて、このウナギを取るのを「夜田ん
   ぼ」とよんでいた。昼間、松の根を掘ってきて、針金で作ったかごに入れて燃やして、たいまつがわりにした。わたしな
   どは、もっぱらたいまつ持ちであった。先輩が、明かりの中に浮かび上がるウナギを追いかけてヤスやウナギバサミで取
   るのだが、ウナギが動き回るので、先輩から「あっち、こっち。」と言われて、それを追っているうちに、畦(あぜ)や溝
   に足をとられて、たいまつを水につけて消してしまうこともあった。そうなると、火をつけ直さなければならないので、
   大きな獲物を追っているときなどは、先輩にひどい目に怒られた。
             
 ** 子供のころ、大ウナギ(*3)を見つけたことがある。
    「おーい。大ウナギがおるぞー。」と言うと、近所の人が来て、わたしのヤスでその大ウナギを突いてつかまえた。

 ** わたしも、淵に潜ってナマズを取っていたとき、3mくらいの淵の底で、大ウナギに出くわした。最初は、岩の間から
   丸太が出ているように見えたが、ヤスでつつくと動くので、「おやっ。」と思ってよく見ると、これが大ウナギだった。
   反対側に回ると、大きなナマズをくわえて、まさに一飲みにしようとしているところだった。兄がいっしょにいたので、
   二人でヤスで仕留めた。体長は、1m20cmくらいあっただろうか。足の太ももくらいの大きさだった。淵の底のことだ
   から、潜ったり浮かび上がったりしながら、かれこれ30分くらい格闘したように思う。最後はエラに手を入れて、抱え
   て岸に引き上げたが、あとで見ると、1本のヤスは、折れ曲がってしまっていた。

 ** このときは、わたしも上から見ていたが、その場にいた者がみんな、まるで鬼の首でも取ったように喜んだのを今でも
   よく覚えている。

 ** 食べたが、味は淡泊だった。

  エ 消えたニホンカワウソ(*4)

 ** カワウソは、あまり、姿は見なかったが、水に飛び込む音を聞いたり、足音や石の上に残された糞(ふん)などをみかけ
   ることはよくあった。

 ** 当時は、いまのようにカワウソが珍しくはなかったので、だれも意識してカワウソを捜すということもなかったのだろ
   うから、あまり姿は目撃されなかっただけで、岩松川水系にはたくさんいたと思う。
    カワウソの特徴は、頭のてっぺんが平らで、しかも、その頭が水面と水平になるように泳ぐので、その姿からカッパ
   (エンコ)伝説がつくられ、魚籠(びく)の中から魚を失敬するというような話もできたのだろう。つい最近までは、わ
   たしたちのごく身近な動物だった。
    塩素系農薬の使用によって餌となる川魚や力二・エビなどが減少したこと、護岸のコンクリート化によって住みかがな
   くなったこと、人間による毛皮を目的とした乱獲などによって、わたしたちの周囲から消えていってしまったのだろう。

 ** 話していると、川に関していろいろな思い出が出てきて、話が尽きない。

 ** 四季を通じて、山と川と里の遊びの中で、川が占める比重が一番大きかったように思う。幼いころの思い出は、川に集
   中するようだ。

 ** 遊びを通じていろいろなことを習ったが、特に川での遊びの中で身に付けたことが一番多かったように思う。

 ** 川くらい、豊かにいろいろなものを与えてくれたものはなかった。
    今は死語になったが、当時はどの地域にも、いわゆる、「餓鬼大将」がおり、それを頂点とする子供たちの共同体の
   中で、いろいろなことを覚えた。
    学校から離れて存在したこのような子供の世界が、子供が成長する過程で果たした役割は大変大きかったことを思う
   と、それがなくなってきたことが惜しまれる。


*3:別名、アカウナギ、カニクイ、カニクイウナギとも呼ばれ、赤みを帯びた灰色の皮膚にゴマ模様の斑点がある。岩松川の
  下流や、支流の増穂川下流に生息しているもので、これまでに発見されたもののうち、最大のものは、昭和10年(1935
  年)に捕獲された体長2m、重さ21kgのものである。近年は、ほとんどその姿が見られない。
   昭和43年(1968年)3月、県の天然記念物に指定された(愛媛県教育委員会『愛媛の文化財』による。)。
*4:哺乳類食肉目のイタチ科に属し、水棲に適応した唯一の大型夜行性動物である。四肢は短いが、指とくるぶしの間にみず
  かきをもっていて遊泳に適し、好んで魚やカニを捕食する。成獣で、頭胴長は70cm程度、尾は長大で45cm前後、体重は
  5~10kgである。絶滅が心配されており、昭和40年5月、国の特別天然記念物に指定された。
   また、昭和39年5月には、県獣にもなっている(愛媛県教育委員会『愛媛の文化財』による。)。