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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)川を祀(まつ)る

 ここでは、水徳の神、安産、水難除けの神として、川とのかかわりが強い水天宮を祀る人々を取り上げて、川と人とのかかおりを探ってみた。
 水天宮は、本社が福岡県久留米(くるめ)市にある。祭神は、天之御中主(あめのみなかぬし)神、安徳(あんとく)天皇、高倉中宮(たかくらちゅうぐう)、二位尼時子(にいのあまときこ)である。社伝によると、平家の没落後、建久(けんきゅう)のころ(1190~1198年)建礼門院(けんれいもんいん)の命により女官按察使局(あぜちのつぼね)伊勢が筑後(ちくご)国(福岡県)の筑後川辺り、鷺野原(さぎのはら)に来て、源平の合戦で敗れて水没した安徳天皇と平氏一族を祀り、水神加持祈禱(かじきとう)したのがはじまりとされる。以後、筑後川の水神として霊験(れいけん)あらたかで、江戸時代になると、久留米藩主有馬氏の崇敬も厚く、水難除け、安産の神として広く信仰され、各地に分霊祭祀(さいし)がおこなわれた(②)。
 例祭は、5月5日から7日で、川祭、河童(かっぱ)祭とも呼ばれている。

 ア 横河原と水天宮

 **さん(温泉郡重信町横河原 大正10年生まれ 73歳)
 **さん(温泉郡重信町横河原 大正15年生まれ 68歳)

 (ア)水天宮の勧請(かんじょう)(③)

 重信町横河原(よこがわら)の水天宮については、概略以下のような由緒が伝えられている。

   横川(よこがわ)(現在の横河原)は、重信川の水勢が激しいところで、堤防がしばしば決壊した。人々は、その都度、修
  繕回復に努めたが、水害は止むことなく、人の力ではとても防ぐことができなかった。そこで、これはもう神の威力に頼る
  しか方法がないと覚悟を決め、官民が一体となり、久留米の筑後河畔に鎮座する水天宮を勧請し、横川水天神社と呼んで災
  い除けの神とした。

 水天宮が勧請された年代は不明であるが、天明8年(1788年)の資料にその名がみられることから、18世紀前半(江戸時代中期)ではないかと考えられる。明治のはじめまでは、樋口(ひのくち)村の三島神社と志津川(しつかわ)村の天満宮の両社が合同でお祀りをしていたが、明治3年(1870年)以降、三島神社でお祀りすることになった。ところが、明治12年(1879年)に行われた神社明細登録の際に登録手続を忘れたため、以後、無籍の神社となってしまった。
 当時の横川は、金毘羅(こんぴら)街道に沿う十数戸の寒村であったが、明治32年(1899年)10月4日に伊予鉄道が開通し、横河原駅ができると、東温地区の交通の要衝(ようしょう)として急速に発展し、駅を中心に一大商業集落が形成され、地名も駅名にちなんで横河原とよばれるようになった(*6)。このような横河原の発展は、住民の間に、氏神として水天宮を祀ろうという気運を高めた。そこで、住民が寄付を積み立てて神社の財産を蓄えたうえで、大正12年(1923年)12月19日、代表11名が連名で県に脱漏(だつろう)神社編入願を提出し、翌13年6月19日に承認され、以後、水天宮は、今日まで横河原の人々によって、地域ぐるみで大切に守られてきた。
 このときの文書には、「御公認の上は、敷地の寄付はもちろん、将来の維持財産として、別紙調書の不動産をも神社に寄付致すべく……」とあり、財産調書には、定期預金2千円、宅地14坪(約46m²)、畑1畝(せ)23歩(約175m²)、山林5畝15歩(約545m²)の記載があり、当時の人々の水天宮に寄せる強い気持ちがよく表わされている。

 (イ)戦前の水天宮

 **さんが横河原に来たのは4歳のとき(昭和5年ころ)であるが、そのころの水天宮は、たいへんにぎやかであった。
 春祭り(5月5日)には、東温11か村(石井、浮穴(うけな)、荏原(えばら)、坂本、久米、小野、排志(はいし)、南吉井、北吉井、川上、三内(みうち)の各村)の青年相撲大会が華やかに行われていた。出店もたくさん並んでおり、小遣いにもらった5銭を握りしめて、あちこちの店をのぞいては、綿菓子やあめ玉、かき氷などを買うのが、子供たちの楽しみであった。祭りの翌日には宮掃除があったが、出店が並んでいたところには、5銭や10銭、ときには、50銭玉などが落ちていたりすることがあり、それが楽しみでたくさんの子供が集まってきた。夜は青年芝居が上演され、これを見るのが地域の人々の楽しみであった。出し物としては、菊池寛の「父帰る」や仁侠(にんきょう)物などが多かった。
 秋祭り(10月16日、現在は、10月7日)には神輿(みこし)が出たので、子供たちは神輿守りに出た。昼は、青年がかく神輿の後先について走り回り、夜になると、提灯(ちょうちん)を掲げて照明係をつとめながら神輿について回った。神輿守りをするとお菓子がもらえたが、その配り方に3通りあって、朝の宮出しから昼の神輿渡御(しんよとぎょ)、さらに、夜の宮入りまで出ると、お菓子がたくさんもらえたので、子供たちは朝から夜まで神輿から離れないよう、涙ぐましい努力をした。
 春秋の祭りのほか、水天宮では、境内の金毘羅さんや奈良原(ならばら)さんのお祭りには、子供相撲が奉納されたので、たくさんの子供が出場して、景品に文房具類をもらった。春と秋のお講には、中国筋や北九州方面など県外からの参拝客も多く、にぎやかであった。

 (ウ)青年団と水天宮

 町内の青年組織としては、江戸時代から若連中(わかれんちゅう)とよばれるものがあった。これは、当時の村落共同体を維持していくために必要な行動グループで、神社の祭礼奉仕や縁日、相撲、村芝居などの娯楽行事のほか、村内警備や道路普請(ふしん)のような公共奉仕などの活動をしていた。しかし、明治になると、若連中の重要な仕事のうち村内の治安警備や道路・堤防の普請改修は、警察や公共団体の職務となったため、若連中の社会的な役割は次第に縮小されていった。このような状況の中で、明治後期になると、全国各地に若連中に代わるものとして、青年会が組織されるようになり、重信町(拝志村、南吉井村、北吉井村が、昭和31年9月に合併して成立。)でも、明治41年(1908年)に南吉井と拝志の青年会が、また、同44年に北吉井の青年会が誕生した(④)。青年会に入れるのは数え年の15歳からで、25歳になるか、または、結婚をすると退会をした。結婚によって退会するときは、酒2升(3.6ℓ)と豆腐を会に差し出すのが慣習となっていた。
 水天宮のお祭りは、このようにして組織化されていった青年たちを中心に行われた。
 春祭りは、青年芝居が中心であった。台本を作り、毎晩、公会堂に集まって、夜遅くまで練習に励んだ。準備におよそ1か月半くらいかかったが、当時は娯楽が少なかったので、青年芝居は、たいへん人気があり、戦後、昭和30年代前半ころまで、続いていたようである。相撲大会も青年団の主催で行われたが、その寄付集めが大変であった。最初にだれのところに行って寄付を頼むか、すなわち、だれに「筆下ろし」をしてもらうか(最初に寄付をし、芳名録に氏名を書き入れることを「筆下ろし」とよんだ。)ということが、その後の寄付金額に大きく影響をしてくるので、いろいろと作戦を練って、寄付集めに出かけた。
 秋祭りでは、神輿の渡御が青年団の主な任務であったが、これは公式の行事で、終われば、あとは自由であった。戦前は、祭りの日は神輿が一番強かったので、時には、気にいらない家に神輿をぶつけたりしたこともあった。青年たちは、日ごろから道路や神社の掃除など、地域に貢献していたので、祭りの時は、たいていのことは大目に見てもらえた。祭りは、青年の特権であった。

 (エ)現在の水天宮

 昭和30年代後半以降、日本が高度経済成長期に入ると、町内でも青年層の都市流出が目立ちはじめ、青年団は団員の減少とともに、祭りの実行部隊としての活力を失っていった。その結果、春祭り、夏越(なごし)祭(7月31日)、秋祭りは、横河原区の責任で行われることになった。なかでも、秋祭りの神輿渡御は一番の大仕事であるが、神輿のかき手は、区の役員や公民館活動協力員(20~50歳代)が参加してくれており、神輿が出せないというような状態は起こっていない。
 横河原の人々の間には、無籍の小さな神社であった水天宮を自分たちがお守りし発展させてきたという自負と、水天宮が横河原の住民の融和と統一の中心となっているという意識が強く、今でも水天宮のことになると、自分のことのようにむきになる人が多いといわれている。このような熱い思いに支えられて、はるか九州の地から勧請された水天宮は、横河原に大きな根を下ろしたといえよう(写真1-1-6参照)。

 イ 水天宮と花火大会

 **さん(大洲市志保町 昭和27年生まれ 42歳)
 肱川に架かる冨士(とみす)橋のたもと、国民宿舎大洲臥龍苑(がりゅうえん)の裏手に、小さな社殿と赤い鳥居がある。これが、大洲の水天宮で、社殿の下に、「明治二十年 久留米より勧請 水難予防の神として霊験あらたかなるを以て信仰あつし」という由来を記した碑が立っている。付近には、肱川流域でも最も深く、また、最も危険といわれる臥龍淵があり、一帯は、昔から水難事故が後を絶たなかったので、水難予防と犠牲者の供養のために、明治20年(1887年)に勧請し、小さな祠(ほこら)を建ててお祀りをしてきた様子がうかがわれる(写真1-1-7参照)。
 この水天宮を有名にしたのは、大洲の夏の風物詩の一つになっている、水天宮花火大会である。
 以下、この花火大会を主催してきた一歩(いっぽ)会の第14代会長、**さんのお話をもとに、水天宮(肱川)を舞台にした地域おこし活動を紹介したい。

 (ア)一歩会の発足と水天宮花火大会

 一歩会が発足したのは、昭和40年(1965年)5月である。柚木(ゆのき)地区の仲良しグループが集まって話をする中で、地域振興のために何か会をつくろうということになり、15名で発足した。そして、小さな歩みだが、一歩ずつ歩んでいこうという気持ちを込めて、柚木一歩会(通称一歩会)と名付けた。
 会は、ボランティア、イベント企画等の活動を通じて、柚木地区の連帯感の向上を図るとともに、文化や経済の振興を通じて、大洲市ひいては南予の発展に寄与することを目的とし、最初は、道路の清掃などの小さな活動を行ってきた。しかし、こうした活動の中で、もっと何かないかという気持ちが会員の中に高まった。いろいろと模索した結果、柚木地区の地の利を生かし、肱川の如法寺(にょほうじ)河原を活用しようということになり、水天宮奉納花火大会が始まった。地域のシンボルとしての水天宮を中心にして、地域の振興と会員の士気の高揚を目指したもので、水天宮の下に昭和56年に建てられた「一歩会之碑」からも、発足当時の会員たちの熱い心を感じとることができる。
  
   〇一歩会之碑
     昭和四十年五月十五名で発足
     柚木地区の発展に尽くすことを誓い、
     ここに若者の力を結集した。
     水天宮は会員の心の支えであり、
     花火大会は力と和の祭典である。

 花火大会が、いつ始まったという正確な記録はない。最初は、小規模であったが、若い者が頑張ってやりだしたということで、柚木地区の区長会からも、こぞってバックアップが得られるようになり、次第に拡大していった。現在では、花火大会に、年間七、八百万円の予算を組んでいるが、これらはすべて、寄付によってまかなわれている。今は、一歩会とは別に、柚木地区全員を会員とする大洲水天宮奉賛会が結成され、花火大会は奉賛会が主催し、一歩会が実行部隊として働く、という体制が出来上がっている。これによって、一歩会の負担が軽減されて、他のボランティア活動にも力をいれることができるようになった。
 水天宮花火大会が盛大になるにつれて、市からも注目され始め、今では、市をあげてこの行事に取り組むようになり、大洲を代表する行事にまで発展した。小さな組織が、その大きな行動力により市全体を巻き込んでしまった好例であるといえよう。

 (イ)花火大会の開催

 花火大会は以前は7月16日に行っていたが、まだ梅雨が明けきらず、いつも雨にたたられることから、現在は、学校が休みになった21日に行われることになっている。
 花火大会に向けた会の活動の第一歩は、およそ2か月前から始まる寄付集めである。会員が13のグループに分かれて市内の事業所を回り、寄付を募る。今年(平成6年)は、約360の事業所の協力が得られ、これらの事業所をスポンサーにして、約1,500発の花火を打ち上げることができた。
 花火大会が近づくと、PRにも熱が入り始める。大洲市内はもとより、広く松山から東宇和、西宇和郡に及ぶ地域に、約300枚のビラをはって回るとともに、前日と当日の二日間は、宣伝隊を派遣してPRに努めた。自分の仕事を放っておいての活動だけに、会員にとっても負担は大きい。消防署、警察署、観光協会、肱川漁具協同組合など、関係機関や団体との連絡調整も重要な仕事である。
 大会当日は、交通整理やトラブル防止のために、自主警備にも多くの人数が必要である。また、会員による、夜店の開店や大釜を用いた鮎雑炊(あゆぞうすい)の無料提供などにも、多くの労力を必要とする。この大釜は7石炊き(1石=180.4ℓ)で、一度に3,000食分を炊くことができるほど巨大である。材質はアルミニウムで、鉄製のくど(かまど)とともに、会員が技術や労力を提供しあって作ったものである。昨年(平成5年)は、モツ鍋を提供して好評を博したので、今年は、大洲、肱川のイメージを生かして鮎雑炊(あゆぞうすい)にしたが、作る側も、食べる側も今一つで、好評は得られなかった。しかし寄付を集めて花火業者に委託してしまうと、大会当日の会員の仕事は、花火の打ち上げ準備や仕掛け花火のワイヤー張り、会場警備などにすぎず、あまり充実感や達成感が得られないので、会員の士気を高め、連帯感を強めるためには、こうした活動が必要である。イベントを催すということは、日ごろうっ積されたエネルギーを発散させるという意味もあるので、大いに体を動かし、汗をかくような活動を取り入れる必要があるのではないか、これが**さんが一歩会の活動を通じて得た体験的行動哲学である。

 (ウ)これからの一歩会

 一歩会の自主的な活動として始まった花火大会であるが、規模が拡大するにつれて、一歩会自体もその中に飲み込まれてしまい、会の独自色が失われかけているのが現状である。
 この間、会員数は増加し、一時は40名を超えたが、今は世代交代期にさしかかっており、減少傾向にある。現在の会員は38名で、職種も自営業者から医師、勤め人まで多様である。年齢も20歳代から60歳代まで幅広く、リーダーシップをとっているのは40歳代であるが、世代間の意識の差が大きくなってきており、今後、会をどのように引っ張っていくか、大変むずかしい時期にさしかかっている。たとえば、若い人たちの中には、社会のためにというボランティア精神よりも、自分たちが楽しむことを大切にしようという気持ちも強く、組織の活性化に不可欠な世代交代を、どのような形で行うかがむずかしい。
 活動についても、現在は、花火大会に全精力の7、8割を注いでいるが、これからどうするか、を真剣に考えなければならない時期にきているのではないだろうか。昭和63年に、花火大会に代えてレーザー光線ショーを催したことがあった。新しいものを求めてあえて冒険をしたわけであるが、高齢者を中心に全般的に不評で、成功とは言いがたかった。大洲盆地の夜空全体に響き渡る花火の音と光がもつ人集め効果は抜群で、とてもレーザー光線の比ではないことがわかった。やはり、日本の夏には花火がよく似合うようである。一歩会としては、花火大会の開催によって、大洲を離れていく人々の、大洲での思い出づくりに貢献しているのは事実だろうが、その一方で、地元(あるいは会員)には実質的な利益がほとんどないうえ、主催者としての負担があまりにも大きすぎるのが現状である。
 最近は各地で地域おこしグループがさかんに結成されて活動しているが、一歩会がここまでやってこられたのは、会の目的が、経済的な利益を求めるものではなく、あくまでも会員や地域の連帯感を重視した活動であったためではないだろうか。一歩会の強みは、さまざまな職業の人やいろいろな考えの人がいるということであり、それが、一歩会の活力の最大の源となってきた。地域おこしでは、過疎対策や経済の活性化ということを前面に押し出しがちであるが、それだけでは長続きしない。これからの地域おこしには、さまざまなイベントを通じて、多くの人々に、語らう場や交流する場を提供し、地域の連帯感を強めていくという姿勢が必要ではないかと、**さんは力説する。
 大洲で生まれ、大洲で生きている人々には、肱川に対する愛着は大変強いものがある。大洲に生きる者として、肱川とのかかわりの中でどのように生きていくか、川へのこだわりをどのように生かしていくか、それが、これからの一歩会のテーマではないかと、**さんは考えている。


*6:横川の地名は、広島市内や群馬県などにもみられることから、横河原と呼ぶようになったといわれる。

写真1-1-6 横河原の水天宮(横川水天神社)

写真1-1-6 横河原の水天宮(横川水天神社)

境内は憩いの場として親しまれており、訪れる人が絶えない。平成6年8月撮影

写真1-1-7 柚木の水天宮

写真1-1-7 柚木の水天宮

平成6年10月撮影